私には自分の子どもがいません。
離婚して今は独身ですし、結婚していた頃、子どもは持ちませんでした。
その理由は、子どもを持つことに対して希望が持てず、また、それを強制されたからということにあります。
家庭を持つつもりもありませんでした。
それでも結婚したのは、上記のような私の言いぶんを、元夫が理解してくれたからです。
結婚しても子どもはいらない。
それは、幼い頃から苦労が多く、家庭を持つことに対する希望が持てないし、況してや子どもを持つことは、私にとっては不幸せ以外の何ものでもない。
私がこれだけのことを言っても、元夫は一緒に暮らしてもよいと言ってくれたので、結婚はすることにしました。
この人となら、共に生きていけると思ったからです。
結婚はしても子どもはいらない。
娘の立場として苦労ばかりさせられてきたので、自分の子どもを持つことに全く希望が持てない。
元夫は理解してくれ、二人での結婚生活が始まりました。
幼い頃から苦労ばかりで、子どもを持つことに希望が持てない。
これ以外の理由は、子どもを持つことを強制されたからです。
幼い頃から、私は大人になったら、よその家に嫁ぐものとして厳しく躾けられました。
家事は完璧でなければならない。
嫁ぎ先に気に入られるような女の子でなければならない。
そして、おそらく発達障害を抱えていたであろう、父の過剰な期待です。
私を一人の人間としてではなく、娘、女の子として父は捉えすぎていた。
25歳くらいまでに結婚し、子どもを持つ。
父は過剰にこのようなことを、私に期待していました。
しかし、その一方で男子以上に学業が優秀な私に、良い大学に行き、良い会社に入り、仕事ができる女性たれ。
腰掛けで仕事をするのは、低学歴で無能な女。
父はそのような、とんでもないことばかり言っていました。
こういった点、自分の思うことはみんなが思うこと、みんなが思うことは自分の思うことではない。
発達障害の典型ではないでしょうか。
自分の思い込みが全て。
他の人の胸中はお構いなし。
このような父から、女性としてだけの機能・出産することに過剰に期待されることは、私にとっては、出産の強制以外の何ものでもありませんでした。
結婚して出産すれば、異様に自分の考えにこだわる父の思うつぼ。
私は、これに対しては猛反発する気持ちしかありませんでした。
そういう訳で、自分の子どもは持ちたくない。
そういう結論に至りました。
人間は、一方的に相手から考えを押し付けられたら、嫌気が差すものです。
もう一つ、父の考えで問題なことは、勝手な適齢期。
25歳までには結婚するよう期待するにも関わらず、社会で仕事をする上では優秀でなければならないという、捻じれた期待感です。
一体全体、どっちなの?
これに対しても、私は反発していました。
一体全体、どっちなの?
勉強して男子以上に優秀であれ。
しかし、女の子らしく控えめであれ。
一体全体、どっちなの?
男子以上に優秀であれと言う一方で、女の子らしさを過剰に求める。
そして、とにかく勉強、とにかく大学。
父と母は、いわゆる教育パパ、教育ママではありませんでしたが、父の学歴コンプレックスは尋常ではありませんでした。
北海道大学に一浪しても入れなかった父は、私が中学校に通うようになり、成績はオール5、定期試験では常に学年でもトップクラスと、優秀であるとわかると、やはり過剰な期待ばかり膨らませていました。
結婚していた頃、お姑さんに言われたことですが、私は学問に対して優秀ではない方が、よかったのかも知れないということ。
なまじ優秀だったために、父は過剰な期待感ばかり膨らませ、結果的に私の可能性を摘み取ったと言えます。
幼い頃から勉強は好きでしたが、優秀なのだからとにかく大学、それ以外は一切認めないという、典型的な発達障害であったであろう父の頑固さが、私の可能性を閉ざしたと思っています。
もっと広い視野で、私に対して接することはできなかったのでしょうか?
できなかったということは、父はやはり、相手の胸中を汲むことができない発達障害を抱えた人間だったということでしょう。
私の可能性は、こういう父の欠落した部分に摘み取られたということです。
勉強は好きですが、もっと違う可能性も広く捉えて欲しかったですね。
何度か、大学には行かず専門学校などに通い、手に職をつけるのはどうだろう?
父にそう提案したこともありましたが、一切聞き入れてもらえませんでした。
融通が利かない、違う選択肢が目に入らない。
やはり、父は典型的な発達障害を抱えていたと言えるでしょう。
被害者は私です。
また、母にも言われたのですが、女の子は嫁がせるもの。
よその家庭に差し上げるもの。
そういう風にも言われました。
これも不愉快でしたね。
私は、差し上げるというような物ではない。
結婚は、女性が結婚相手の家庭に入り、同化するものではない。
こう考えた私は、両親に反発することはもちろん、嫁ぐという表現にもかなりの抵抗を感じました。
ですから、結婚で女性が姓を変えるのには今でも抵抗があります。
根本的には、昔からの家制度の発想が見え隠れします。
ですから、このことについても、結婚前に元夫とよく話し合い、事実婚で夫婦別姓の形を取りました。
元夫に出会わなかったら、私はずっと独身だったと思います。
ただ、それだけわかり合っていても、同じ人間ではありませんし、夫は夫、私は私。
人の心は変わりますし、年月が経つにつれてお互いが変わっていったということから、離婚に至ったのだとも思いますし、今でも離婚の理由がわからない部分もあります。
一度結婚し、離婚した。
では、結婚はもうこりごりか?
そんなことはありません。
機会があれば、いい人がいれば結婚してもよいとは思っています。
次も、夫婦別姓にするか?
それもわかりません。
私が夫になる人の姓を名乗るかも知れませんし、夫になる人が私の姓を名乗るかも知れません。
民法には、妻は夫の姓を名乗るべし、そんなことは一行も書かかれていないのですから。
子どもを持たなかった理由、結婚もしなくてよいと思っていた理由は、幼い頃から貧しく、苦労ばかりで結婚や子どもを持つことに希望が持てなかったこと。
そして、おそらく発達障害を抱えていたであろう父の過剰かつ捻じれた期待。
この二つが大きな理由です。
しかし、子どもを持ちたくないと思った理由はもう一つあります。
中学生の頃に摂食障害を発症し、かなり体重を落とした結果、瘦せ細って生理も止まってしまいました。
そこで母に連れて行かれた病院が、精神科ではなく産婦人科だったことが、私の心に暗い影を落としました。
私は、心の中の問題を見てもらえず、将来は子どもを産むためだけに存在するのか?
私は、子どもを産む機械としてだけ期待されているのか?
これで、決定的に子どもを持つことに対する反発しか残らなくなりました。
私の両親は、昭和10年代に生まれ、太平洋戦争中に子供時代を過ごした世代ですから、娘に精神的な医療を受けさせるという価値観は皆無な世代です。
でも、それであれば、せめて学んで欲しかった。
自分の頭で考え、何が本当に必要か追求するべきだったと、私は今も考えています。
今でも、母とこのことを話すことはありますが、当時、母も精神のカウンセラーのところには相談に行っていました。
それは間違いではありませんが、適切でもありません。
父と母は無知だったのです。
人間としては、真面目で善良、申し分のない人間性の持ち主ですが、逆に言えばただそれだけの無知な人間だったのです。
私には物足りないですね。
子は親の進化形。
父の賢さも母の素晴らしい人間性も、そのどちらも凌駕する私は、発達障害であったであろうがゆえに、自分の能力を発揮できなかった父、頭はあまり良くなくても人間性が素晴らしい母、その両方の良いところを兼ね備えて進んでいけるのです。
その私にとっては、父も母も物足りない。
こうして燻っていた思いが表れたのが、子どもを持たないという選択でした。
父がおそらく発達障害であったことと合わせて、私自身が診断された自閉症スペクトラム障害、これらの問題を自分より後に生きる世代には残さなくてよかったと考えています。
精神の問題は遺伝するのではないでしょうか?
私の自閉症スペクトラム障害は、父からの遺伝に他なりません。
私は、自閉症スペクトラム障害を正確に診断されたことは、自分にとっては有意義であり、良い結果だと考えています。
能力の偏りが著しく、学問は得意なのに、普通の人が簡単にできることができない等、問題はありますが、己を正しく知ることは正しい方向に己を向かわせることです。
それでも、私は自分の子どもにこの個性は継がせるべきではないと考えています。
自分の問題を自分の中だけで完結させるのはいいのですが、自分とは違う人格の子どもには、背負って欲しくないことですね。
この血筋は、私で終わらせるべき。
私は無意識に、このことがわかっていたのかも知れません。
話は脱線しますが、私の父こそ結婚すべきではなかった、自分の子どもは持つべきではなかった人だと考えています。
おそらく発達障害を抱えていたであろう、よって、仕事が長続きしない、周囲の人と衝突ばかりしている。
こういう人間は、家庭を持つべきではありません。
本人も、家族のために向いていない仕事を無理してやらなければならないのは、苦痛でしかないと思うのです。
しかし、父は若かりし頃、母と出会って顔を合わせれば結婚してくれ、結婚してくれとしつこく、困り果てた母が仕方なく結婚したという部分もあったようです。
父は、幼い頃に自分の父を亡くし、年の離れた兄弟に育てられたので、自分は温かい家庭を築くことを夢見ていた。
理解できない訳ではありませんが、最も家庭を持つべきではない人間が、最も求めたものは家庭を持つことだったという、矛盾と皮肉。
私は、こういう失敗をしたくなかったのでしょう。
だから、理由は思いつきますが、それ以上に本能的に自分には何が必要か、弁えていたのでしょう。
私は、こうして自分の嗅覚のままに進んできました。
動物的な勘とでも言うべきものでしょう。
これを信じて、いえ、信じるということよりも、もっと原始的かつ根源的な判断が、いつも自身を導いてきました。
論理的に考えすぎたり、がむしゃらに進もうとする方が、私はうまくいかない。
だから、これからも自分の嗅覚を頼りに、心の赴くままに進むのみなのです。