子どもの頃から誰でも、大きくなったら何になりたいか夢を思い描きますよね。
私が記憶にある範囲では、最初は看護婦さんになりたかったですね。
今は看護師さんと言われていますが、私が幼い頃は看護婦さんと呼ばれていました。
保育園に行っていた頃の私の夢は、看護婦さんでした。
一時期、母と同じ職場の方が毎朝、迎えに来てくれてその方の車に乗り、私と弟を先に保育園で降ろして母は仕事に向かっていました。
ある日、その親切な方に「とまとちゃんは、大きくなったら何になりたいの?」と聞かれました。
保育園児だった私は、迷わず「看護婦さん」と答えたのですが、その方に「じゃあ、便所掃除しなきゃならないね」と言われました。
軽い気持ちで子どもをからかったのだろうと、今では笑い飛ばせる話ですが、まだ保育園児だった私は向きになって反論し、看護婦さん以外の仕事を挙げたのですが、その方はとにかく「便所掃除しなきゃ」と繰り返したので、私はなんだか悔しくて泣いてしまった記憶があります。
その方も大人げないですが、昔の大人って現代の大人よりも残酷で、ずけずけ物を言う方が多かったような気がします。
いわゆる、放送禁止用語がテレビでも飛び交っていましたし。
視覚障害、聴覚障害、肢体不自由な方に対しても、容赦ない差別的表現が投げかけられていた時代でもありました。
今はそういうことは許されなくなりましたが、逆に言えば「言葉狩り」も散見されるようになりましたね。
相手の言葉尻を捉えて、揚げ足を取るという問題が出るようになってしまいました。
ですから、昔は昔、今は今で問題が絶えることがないのですね。
話が脱線してしまいました。
つまり、保育園児だった私は、朝保育園に行く時に送って行ってくれていた、母の職場にいた親切な方の言葉に向きになっていたのです。
子どもらしいと言えば子どもらしいですね。
そのような感じで看護婦さんに憧れていたのですが、小学生になる頃には、動物が大好きだった私は獣医さんになろうと思い始めました。
父にそのことを話すと、大学に行く必要があると教えてくれました。
後に進学する北海道大学にある獣医学部であるとか、帯広にある帯広畜産大学であるとか。
動物が大好きだった私は、俄然、勉強に対するやる気が湧いてきました。
元々、勉強は好きだったのですが、ますますやる気が出ました。
そこで、ある時、塾に行きたいと母に頼んでみたのです。
しかし、母はすぐに賛成してくれませんでした。
当時、私は小学校の四年生くらいだったので、母に口答えしたり、自分の考えを伝えようとしたのですが、話し合いは平行線のままでした。
とうとう、親子喧嘩になってしまったのですが、今でも忘れられないですね。
母は、あろうことか、こう言ったのです。
「女の子が獣医さんになって、どうするの?!」
何ということでしょう。
現代なら、世間様に怒られてしまうような暴言です。
つまり、女の子は獣医師になれない。
結婚すれば続けられない。
私は小学校四年生くらいでしたが、そういう意図は伝わってきました。
大変、失礼な発言ですね。
今は、女性の獣医師の方もたくさん活躍されています。
こういうことを言われてしまったので、以前もお話ししましたが、私は結婚して家庭を持つことや子どもを持つことに魅力を感じられなくなってしまいました。
元夫が、私のこういう気持ちを理解してくれる人だったので、結婚はしましたが。
これは、私が未だに母に対して怒っていることでもあります。
かなり時間が経ち、大人になってから母にその発言の真意を尋ねてみました。
母は、こう答えてくれました。
「当時(今もずっとそうなのですが)私の実家は金銭的にかなり苦しく、私を塾に通わせる余裕はなかった」
大人になれば、頭で考えて理屈ではわかるようになっても、子どもの頃に言われたことというものは、その後一生涯に渡って心の奥底に残っていくものです。
母の気持ちはわかっても、やはり、10歳くらいの私に言うべきことではないですね。
ただ、小学生までの将来の夢というものは憧れの域を出ず、大人に連れて変わっていくものではありますが。
中学生くらいになると、精神科医を目指すようになりました。
小学生の頃から精神的に不安定で、一時、離人症の症状が出た時期もあったくらいです。
それでも、私の両親は1930年代に生まれた古い世代なので、私に精神的な問題があると疑う価値観を持っていませんでした。
自閉症スペクトラム障害が、最近になって、50代になってやっと診断されたように、精神的な問題に関しては、ほぼ放置されてきた訳です。
生まれながらに精神的な問題を抱えた私は、中学校に入学すると摂食障害を発症しました。
拒食に陥り、体重が30kg台まで落ち込んだのですが、やはり積極的な治療を受けさせてもらえませんでした。
この摂食障害の問題も、自閉症スペクトラム障害同様、ほぼ放置でしたね。
結婚してから、元夫が治療に協力してくれました。
中学生になった私は自身の心の問題を探るため、精神科医という仕事があることを知り、志すことにしました。
これは、高校に入学しても変わりませんでしたね。
私は、札幌南高校という高校の卒業生なのですが、入学した頃はそういった志があったので、迷わず医学部を志望して勉強していました。
医学部は入学試験に数学と理科が課せられることが多く、理系の傾向の勉強が必要です。
これは、あまり苦になりませんでした。
その頃から、こうして文章を書くことも好きでしたし、文系の科目もよく勉強していました。
前述したように、私が生まれ育った家庭は貧しかったので、私立大学に進むという選択肢はなく、国公立大学しか選べなかったのですが、私は完全に国公立大学向きでしたね。
私は共通一次試験世代なのですが、今ほど選択の幅は広くなく、理系でも医学部志望でも、国語や英語も満遍なく得点することを求められ、私は寧ろそこに強みを発揮するタイプでした。
あのまま進めば、私は医師になっていたのではないでしょうか。
ところが思いがけない分かれ道に出くわしたのです。
共通一次試験を想定し、国語の勉強にも熱心に取り組んでいた私は古典文学に出会いました。
国語の中でも、特に古典文学との出会いが、私の人生を変えたと言っても過言ではありません。
特に多くの作品で描かれる無常観が、私を虜にしました。
万物は流れて消える。
人間もそのようなちっぽけな存在にすぎない。
そこで、無常観が描かれる仏教思想などを学べる学問として、印度哲学を志すようになり、あっさり医学部志望から転向しました。
元は医学部受験を目指して数学や理科も懸命に勉強していたので、最終的に文系を目指すことになっても、共通一次試験を受験することには変わりなく、どの科目も満遍なく得点し、合格圏内に近付くことができました。
医学部志望から転向したことは、私にとってはプラスに働きましたね。
そして、文学部で印度哲学を学んでわかったことですが、実は医学の世界こそ、印度哲学的な視点が必要だと知りました。
医学の進歩は、多くの恩恵をもたらしました。
治らなかった病気が治るようになり、救えなかった命が救われ、寿命も延びました。
しかし、また大きな問題が生まれました。
どんな治療をどこまでやるのが許されることなのか。
倫理的に許されるのはどこまでなのか。
神の領域はどこからどこまでで、人間はどこまで立ち入っていいのか。
これに答えるのが哲学の役割です。
最先端の医学は、実は古くから存在する哲学に答えを求める。
そういう意味では、私が進んできた道は終始一貫していたと言えます。
人間として生きる意味や、自然や或いは神の前では、人間とはちっぽけであると弁えること。
医学の道に進んでも、私はこの問題にぶつかっていたでしょう。
他の道に進んでも同じことだったと思います。
根源的かつ本質的なことを追究する哲学を学んで、医学部に進むよりも大きな収穫を得ることができました。
印度哲学は、私の変わることのない一生の財産です。