今日は「生老病死」についてのお話をします。
これは、仏教の教えですね。
「生老病死」と書いて「しょうろうびょうし」と読みます。
人間が逃れることができない四つの苦、生まれる苦、年老いる苦、病気になる苦、最後に死ぬ苦のことを「生老病死」といいます。
「苦」とは、必ずしも苦しみのことではなく、仏教においては「自分の思うようにならないこと」を「苦」と呼んでいます。
私は大学でインド哲学を学び、この教えに最も感銘を受けました。
インド哲学では、古代インドの哲学の他にも仏教の教えについても学びます。
私なりの解釈ですが、「生老病死」をこう考えてもいます。
生まれてから死ぬまでの間には、年老いることと病気になることしかない。
大学でインド哲学を学んでいた頃からそう考えていました。
人生は苦しいことの方が多いものです。
ですから、生まれてから死ぬまでの間には、年老いることと病気になることしかない。
そう考えても、私なりの解釈は間違いではないと考えています。
実際、年を取らない人はいませんし、病気にならない人はいません。
当然、死ななない人はいません。
究極、生まれてこれない人はいても、生まれて年老いない、病気にならない、死なない。
これはあり得ません。
ですから、人生には年老いることと病気になることしか存在しないと考えても、そう問題ではないと考えます。
では、この苦、特に生まれてきた者が逃れられない苦、年老いる苦と病気にならない苦、そして死ぬ苦を取り除けば、後に何が残るのでしょうか。
年を取らず病気にもならなければ、人生は最強、バラ色でしょうか?
その上、死ななくなればハッピーでしょうか?
古今東西、人間は不老不死を求めてきました。
不老不死とはいかないまでも、病気の克服や老化を遅らせることに、人間は未だに懸命に取り組んでいます。
文字通り、懸命に命を懸けて取り組んでいます。
人間は「生老病死」の老と病と死を取り除かれれば、本当に幸せでしょうか?
老いと病を取り除いたところで、その後にはまた更なる問題が生じるような気がします。
例えば、老いと病に挑戦し寿命は飛躍的に伸びましたが、今度は高齢の方が増え、社会保障の問題が出てきてしまいました。
この調子で、死にも挑戦し、不老不死を手に入れてしまったらどうなるのでしょう?
やめた方がいいと思います。
人間は必ず老いて、病み、死ぬからこそ人間です。
老いと病と死は、仏教の教えにもある通り、神や仏の領域であり、人間がそこに踏み込むべきではありません。
さて、私なりの「生老病死」の解釈についてですが、人によっては救いのない考え方だと思われるかも知れませんね。
せっかく生まれても、死ぬまでの間に年老いることと病気になることしかないとしたら、何が楽しくて生きるのか。
そういう疑問が生じるのもわかる気はします。
しかし、生まれてから死ぬまでの間に、年老いることと病気になることしかない存在として人間が作られたのであるからこそ、ほんの僅かな喜びがありがたく思えるのでしょう。
ありがたいとは、有難いと書きます。
ありがたいことは、それが存在することが稀有であるから、
ありがたいのです。
生まれてから死ぬまでの間に、年老いることと病気になることしかないから、人間は滅多にない喜び事に幸せを感じるのです。
では、前述したように、年を取らず病気にもならなくなれば、人間は幸せになれるのでしょうか?
苦しい要素が全て取り除かれれば、人間は幸せでしょうか?
それはどうでしょう。
私は、苦しいことだらけだから幸せが見えてくるのだと考えています。
一切の苦しみがなくなってしまったら、喜びも消えるのだと思います。
以前、この世界は相反するものから成り立っていると書きました。
男と女から生命が誕生し、プラスからマイナスに電気が流れるように、世界は相反するものが並び立ってこそ存在します。
幸せは幸せのみから成り立つのではなく、苦しみという対極にあるものが存在するから、幸せとして存在することができるのでしょう。
人間は年老いず、病むことなく、死ななくなれば幸せか。
このことを問うというテーマで、こちらのサブのブログ「とまとの呟き」とは別に書いているメインのブログ「小説スカイゾーン」というものを展開しています。
人間を年老いる苦、病む苦、死ぬ苦から解放する存在が登場し、果たしてそれらの苦から解放された人間は幸せかを問うています。
人間を苦から解放する存在は、自らを神と称して登場しますが、そんなに旨い話が本当にあるものか?
本当にあったとしたら、そんな甘言を囁く者は神ではなく悪魔ではないか?
これをテーマとして、メインのブログはその名の通り小説形式で公開しています。
私が大学生の頃から追いかけているテーマ「生老病死」。
人間が避けられないものであるからこそ、一見、苦しく辛いことのようですが、実はこれが一番に幸せを生む条件といえるのです。