お腹いっぱいなんか、クソ喰らえですよ。
私は中学生の頃に摂食障害を発症しました。
理由は、私の両親が貧しい精神を食べることで補っていたからです。
私が育った家庭は貧しく、経済的にかなり苦しい環境でした。
その貧しさを補うのは、全て食べることでした。
日曜の夕方、家族そろっての夕食時には、食べ切れないほどの料理が食卓に並び、たくさん食べろ食べろと勧められたものでした。
これに対し、食べることで心まで補おうとしていたことに、私は幼い頃から疑問と反発を感じていたのでしょう。
中学生の頃の私に聞いてみなければわからない程、時間が経ってしまいましたが、私は食べることが精神の貧しさを補うものだとされていたことには、やはり抵抗を感じていたようです。
経済的に貧しくても、心まで貧しくなってはなりません。
況してや、その埋め合わせを安易に食べること、お腹を膨らませることでごまかしてはなりません。
しかし、私の両親はここでも間違ったことしかしてこなかった。
私が求めたものは、お腹いっぱい食べることではなく、心をいっぱいにすることだったのです。
その認識のずれが、私を摂食障害にさせたのです。
私の両親は、1930年代生まれ。
太平洋戦争中に小学校生活を送っています。
ある程度の年齢までは、軍国主義的な教育を受け、夢はお腹いっぱい食べることというのも無理はないのですが、この世代の過ちは小さくはないのではないでしょうか?
私の両親世代の戦後の目標は、とにかく重厚長大な経済活動を盛んにしてお金を儲けることで、大きいことはいいことだを合言葉に突き進んでいた世代です。
その結果として、現代の私たち世代も私の両親世代も、幸せを掴んだでしょうか?
お金では買えない、精神的なものを求めても手に入らず、心が満たされない人が出現する一方で、その逆に心を満たすことに価値を見出さず、何の疑問も持たず贅沢を貪る人間が現れるようになったという、荒涼とした世の中になってしまったと思います。
私の両親、特に母はこういう意識の低い人間でした。
今もそういう人間です。
だから、私の自閉症スペクトラム障害を理解せず、理解してこなかったことに対する反省もない。
私がなぜ怒っているのかも理解していない。
こんな世代は捨て去ってしまおうと考えています。
心が貧しいまま、豊かさをはき違えた人間はいなくなってもらわなければ、若い世代が迷惑しますから。
話が脱線しましたが、私の両親は私にお腹いっぱい食べさせれば幸せだろうという、考え違いをしていました。
そこじゃないんですよね。
心が満たされなければ、胃袋が満たされても死んでいるに等しい。
この価値観は教育の影響でもなく、もちろん両親の教えでもない。
私の生来の価値観であると言えます。
ですから、経済的な貧しさをお腹いっぱい食べることで埋め合わせようとすることは、私にとっては虫唾が走るような不快極まりないことで、的外れな間違いとしか受け取れなかったのです。
これが、私が摂食障害になった大きな原因ですね。
今は摂食障害は落ち着いています。
自閉症スペクトラム障害をサポートして頂くために、精神の専門病院に通い、精神科の主治医にも診断されていますが、摂食障害に関しては”寛解”状態ですね。
寛解と言うからには、再燃もあり得る。
精神疾患は、治癒に至るまでは紆余曲折があるものですが、摂食障害に関しては寛解状態ですから、このままの状態を維持したいですね。
ただ、私が摂食障害に陥った背景には根深いものがあります。
心の隙間を食べることで埋め合わせようとしてはならない。
大きく視野を広げれば、真の豊かさとは何かを弁えなければならない。
お腹いっぱいになること、お金をたくさん儲けること、物質的な豊かさに惑わされてはなりません。
これらは絶対的な悪ではありませんが、それだけで正しいことでもありません。
心が満たされて初めて、口にするものの味わいがわかるようになる。
お腹だけがいっぱいになっても、人間は満たされることはありません。
お腹いっぱい、クソ喰らえです。