障害者ではない自分

自分に障害がなかったら、どんな人間だったろう?

最近、よくそんなことを考えます。

 

でも、障害者ではない自分は考えられません。

そう思っています。

 

私の自閉症スペクトラム障害が診断されたのは今年に入ってからで、つい最近のことです。

今の精神の主治医に会えなかったら、私は自分の障害に気付かないまま一生を終えていたかも知れません。

 

自閉症スペクトラム障害が診断されるきっかけとなったのは、仕事が長続きしない、他の人と同じことができないという私からの申し出でした。

 

精神の専門医ですから、疾患の治療以外にも精神障害発達障害についての知識も豊富で、仕事をするうえで非常に困ったことになっているからには、何かの障害がないか、確かめてみる意味でも検査を受けてはどうかと勧められました。

 

そこで受けた検査で、私の自閉症スペクトラム障害が診断されたのです。

 

正直、50代になって初めて診断されたのはしんどいです。

若い頃、できれば子どもの頃に診断されていたかったというのが正直な気持ちですね。

 

以前もお話ししましたが、私の両親は1930年代に生まれた古い価値観の世代であり、私の主治医も話していましたが、よほど重い障害でない限り、子どもの精神障害発達障害を疑い、サポートを受けさせるという価値観は持っていません。

 

それでも、今ままで私の障害に気付かず放置してきたことを、理解、反省くらいはして欲しいものですが、母は全く反省していません。

 

父は既に病死していますが、私にしてみれば、逃げられたと感じることもあります。

私の障害に気付かず、さっさと死んでしまった。

不条理さえ感じます。

 

尤も、自閉症スペクトラム障害があって損してきたことばかりではありません。

手前味噌ですが、学生時代は私は非常に優秀でした。

 

中学生の頃の成績は学年でもトップクラスで、私のことを知らない人はいなかったくらいで、その後は文句ない成績で進学校に進んでいます。

大学にも現役で合格し、あまり知られていないインド哲学という学問を学び、卒業しています。

 

精神の専門医が着目したのは、ここですね。

 

非常に優秀なのに、なぜ一般的な仕事がほぼできないのか?

なぜ、こんな簡単なことができないのに、学問だけは飛び抜けているのか?

 

このちぐはぐさから、私の自閉症スペクトラム障害を疑ったそうです。

 

自閉症スペクトラム障害があると、関心を持つ対象にばらつきがあり、得意なことや興味のあることには能力を発揮しても、逆に不得意なこと、興味のないことには全くと言っていいほど能力を発揮できない。

 

精神の主治医はそこに注目して、私に検査を勧めたのです。

 

検査の結果、私の認知機能は言語に偏り、学問に対しては非常に感受性が鋭いと診断されました。

 

学問とはほぼ言語で認知されます。

国語の勉強は読み書きが基本ですし、数学や理科も問題に何が書かれているかを理解し、期待される回答を思考するのは言語です。

英語や外国語の勉強は、言語を使う最たるものですね。

 

精神の主治医から私の自閉症スペクトラム障害を診断する材料として、学生の頃の成績表を参考にしたいと求められたので提出したところ、検査の結果と合わせて判定の材料に使われましたが、学問はできても一般的な仕事がほぼできないなど、極端なちぐはぐさが自閉症スペクトラム障害を診断する決め手になったようです。

 

このちぐはぐさには、今も苦しめられていますが、学問ができて損はしていません。

知らないことを知り、理解できないことを理解できるようになり、解けなかった問題が解けるようになる喜びは大きいです。

 

私に自閉症スペクトラム障害がなかったら、ここまで学問に対する理解を深め、応用し、見識を広げるのに役立てることができたでしょうか?

 

できなかったと思います。

 

それとも、自閉症スペクトラム障害がなかった方が良かったのでしょうか?

学問はできなくても、普通の健常者として生きられた方が良かったのでしょうか?

学問はできなくても、世の中の多くの仕事は務まります。

 

学問はできても仕事ができない方が良いのか、仕事ができても学問はできない方が良いのか?

 

この疑問に対する答えは人それぞれでしょうが、私は前者でも構わない、構わなかったのだと考えることにしています。

なぜなら、前者のような自分以外は考えられないからです。

 

障害がある方、障害があってもそれを含めて自分なのだと思っていらっしゃる方は、たくさんいらっしゃることと思います。

 

私もそうですね。

障害があるからこそ、今の自分なのだと誇りが持てます。

 

障害者ではない自分は想像すらできません。

障害者ではない自分は考えられません。

 

障害があるからこそ、物事に対する理解力を与えられたのでしょう。

何事もそうですが、どこか欠落した部分があれば、それを補う部分があり物事は完結します。

 

障害があるからこそ、他の人にはない秀でたところは誰にでもある。

 

そう考えると、私は障害者ではない自分を想像することはできません。

障害者ではない自分は考えられません。