自分が死んだら、どうして欲しいですか?
こだわりの葬儀の形があるという方も多くいらっしゃることと思います。
私は葬儀は必要ないですね。
違法にならない程度に埋葬してもらえれば十分ですし、お墓も不要です。
私は離婚して独身、自分の子どももいませんから合祀などになるのでしょうか。
実家のお墓はあり、父が眠っていますが、そこには入りたくないですね。
正に、死んでも御免です。
昨日から今日にかけて、自身のTwitterでも暴れていたのですが、私はとにかく自分の両親が嫌いです。
自分の自閉症スペクトラム障害が診断された件で、ますます嫌いになりましたね。
私の障害を理解できなかったのは、古い世代だからと百歩譲ることはできても、母は私の障害を理解してこなかったことを反省すらしていませんし、父に至っては生前、自分ができなかったことを私にやらせようと執着が酷く、苦労ばかりさせられていたので、両親のことが嫌いですし、ますます嫌いになりました。
このような事情で、実家のお墓には入りたくありませんし、元々私はお墓や葬儀に対する意識が希薄です。
親類縁者が集まって飲み食いしたり、葬儀の席で喧嘩が始まったりすることもあるではありませんか。
お金をかけて、忙しい中を集まり、やることと言えば飲み食いか言い争い。
こんな無駄なことはありませんし、私はセレモニーというものに懐疑的です。
中身がないからセレモニーに頼る。
これが私の持論です。
ですから、元夫と結婚した時も結婚式は挙げていません。
尤も、元夫との結婚生活は夫婦別姓で事実婚でしたので、周りの方がどう見るかなどはどうでもいいことであり、二人の心意気と意識が全てでした。
日本国憲法では、婚姻は両性の合意で成り立つと書いてあるのですよね。
私も元夫も、間違ったことはしていません。
こんな私ですから、葬儀は無駄なことでしかなく、そんなことに貴重なお金も時間も費やすべきではないと考えています。
ところが、未だ生きている母は、暇さえあれば自分の葬儀の話ばかりしていて、うんざりですね。
弟も、母に対して「死ぬ死ぬ、死ぬ話ばかりするんじゃない」と呆れ顔です。
母は、華美な葬儀をお金をかけてやりたいと希望している訳ではなく、簡素ないわゆる家族葬を希望してはいるのですが、自分の死=葬儀のことという考え方には抵抗があります。
葬儀のことより、もっと本質的なことを考えるべきだと私は思っているからです。
葬儀のスタイル云々や、誰を呼ぶとか、そういう枝葉末節なことはどうでもいいんですよ。
母は物事の本質ではなく、枝葉末節なことしか眼中にない。
葬儀の話だけでなく物事全般に対してもこうなので、そこが問題ですね。
母は本質を見極めず、枝葉末節なことしか意識にない。
これが私のうんざりする気持ちの根源的な理由です。
私は大学4年生の頃、不仲だった母と些細なことで喧嘩をして家出、そのまま実家に戻ることなく大学を卒業していますが、その当時から母は本質を理解せず、枝葉末節に囚われていて嫌気が差していました。
家出して自力で借りたアパートの部屋に、やはり自力で電話を引き、実家に連絡することもあったのですが(当時は携帯電話はない時代でした)大学の4年生ですから、卒業するためには卒業論文を仕上げる必要がありました。
そこで、母からの質問と言えば二言目には「ろんぶんはどうしたの?ろんぶんはどうしたの?」という念仏のようなものでした。
ろんぶん、論文、卒業論文。
本当に意味がわかって言ってるの?
私はそう感じていました。
意味もわからず、言葉だけが一人歩きし本質を理解していない。
真面目に答える気も失せるというものでした。
このように、本質を理解しないまま葬儀のスタイルの話やお墓の話ばかりされても、積極的に取り合う気など湧いてきません。
どうやら、私は両親との相性が根本的によくないようです。
顔を合わせれば葬儀の話ばかり、母の葬儀に出る気もなくなりそうですね。
長男として責任を持たされる弟も気の毒です。
前述したように、母が暇さえあれば葬儀の話をすることに弟も辟易していますから。
葬式の話ばかりするんじゃない。
もっと本質的なことに目を向け、物事の本流を見極めなさい。
私はこういう思慮が浅い者、頭が悪い人間は嫌いです。
父とも母とも相性が悪く、母の言動には不快感しかない。
これを仏教の教えでは「怨憎会苦」と言います。
恨み、憎み合うような相手に会わなければならない、そのような相手ほどなかなか離れられず、顔を合わせる苦しみから人間は逃れられないとする教えです。
大学でインド哲学を学んだ私は、仏教の教えを自分が追いかけたいテーマとしていました。
仏教の教えは非常に有意義なものばかりです。
「怨憎会苦」の教えは、私に最も身近な事柄ですね。
葬儀の話なんかはどうでもいいんですよ。
この「怨憎会苦」の定めからどうしたら解放されるのか、そちらの方が私には大切なことです。