精神科とのご縁、治療のこと

最近、ブログ以外のネット上での活動の場、Twitterにおいて精神疾患や障害を抱える仲間が増え、盛んに交流するようになりました。

私のように自閉症スペクトラム障害発達障害を抱える仲間もいますし、闘病中の仲間もいます。

 

今日は精神科の病院とのご縁や治療のことについて書きたいと思います。

 

私が初めて精神疾患で治療を受け始めたのは、20年以上前のことです。

当時はまだ結婚していたので、元夫が全面的にサポートしてくれました。

 

精神疾患自体は、小学生の時、今思えば離人症の症状が出て苦しかった思い出があり、また中学生の時には摂食障害を発症していますが、その頃は治療を受けられませんでした。

 

何度かお話ししていますが、私の両親は1930年代生まれの古い世代。

子どもに精神科の治療を受けさせるという価値観は持っていなかった世代ですが、それにしても、治療を受けさせないのは酷いです。

無知と無理解は、人間として最悪です。

ですから、今後は未だ存命の母とは関わりませんし、介護なんかしませんよ。

あんな母には早くいなくなってもらわないと困ります。

社会の、若者の迷惑です。

 

さて、前述のように私は元夫のサポートを受け、20年以上前に精神疾患の治療をスタートさせました。

最初は小さなメンタルクリニックに通っていたのですが、病状は悪化し、摂食障害で体力が落ちたり、仕事もしなければならない元夫の負担も大きくなってきたので、大学病院に入院することになったのです。

 

入院は私自身の意思で決めました。

長年の精神疾患を、腰を据えて徹底的に治療したいと考えたのです。

 

大学病院は私の母校、北海道大学の医学部の附属病院にしました。

大学病院は、入院を希望してもすぐには入院できない場合があります。

 

大学病院は研究と教育の場でもありますから、本当に大学病院で治療が必要なケースかどうか、検討されて判断して頂いてから決まることがあります。

 

私は未だに北海道大学病院の婦人科に、子宮頸がん後の経過観察でお世話になっていますが、婦人科も大学病院で診る必要があるか検討して頂いてから、受診が決定したという経緯があります。

 

そうして決まった大学病院での精神疾患の治療ですが、先ずは入院ということになりました。

閉鎖病棟に入院が決まり、集中しての治療が始まりました。

集中しての治療が功を奏し、2ヶ月とかなり短い期間で入院治療は終了しましたが、退院後の通院治療は10数年にも及び、通院治療していた頃の方が大変なことは多かったです。

 

定期的に通院する以外に、薬も飲み続ける必要がありましたし、仕事に就けるようになるまでは何年もかかりました。

 

通院治療の10数年の間、元夫と離婚したり、離婚してすぐは仕事に就けないくらい病状が悪かったので、障害年金生活保護を頂きながら生活したり、既述のように子宮頸がんに罹ったりと、色々なことがありました。

 

こうして書いてみると、大変と言えば大変ですが、何故かへこたれたり挫けたりしたことはないです。

何故へこたれず、挫けもしないのか?

正直、わからないんですよね。

メンタルが強いのでしょうか?

あまりそういう自覚もないのですが、とにかく何事に対しても私は挫けることはありません。

 

そうして、北海道大学病院での治療は終了しましたが、今も私は精神の専門病院に通っています。

一番の目的は、生まれながらの自閉症スペクトラム障害のサポートを受けるためです。

 

仕事ができるくらいにまで病状が回復しても、いざ仕事となると、長続きせず解雇されたりであるとか、私は仕事に就くうえでかなり困難なことがありました。

そこで、今の主治医から検査を勧められたのです。

北海道大学病院に通院中はほとんど仕事をしていませんでしたから、仕事をするうえで困難な障害が出るということもなく、私自身も障害に気付くことはありませんでしたが、勧められた検査をきちんと受けてみると、診断されたのは自閉症スペクトラム障害でした。

 

そんないきさつで疾患の治療というよりは、障害のサポートという目的で検査、診断された病院に定期的に通うことになりましたが、最近、摂食障害以外に治療していた双極性障害の薬が再開しています。

 

精神疾患は完治が難しいんですよね。

それ以上に、私には生まれながらの障害があるとわかり、障害は薬で治療するようなものではありませんから、このサポートは生涯続くものと思われます。

 

では、それは嘆き悲しむことなのか?

それは違うと考えています。

 

障害があってもいいではありませんか。

 

私の自閉症スペクトラム障害は生まれながらの障害と診断されていますが、人間は皆、誰もがいつ、どんな障害を負うかわからない存在です。

病気になったり、事故に遭ったりして障害者になるかも知れない確率は誰もが100%なのですから、殊更に精神障害を嘆く必要はありません。

 

精神疾患についてもそうですね。

人間が病気に罹る確率は100%です。

病気に罹らない人間はいません。

 

私が大学で学んだインド哲学という学問で感銘を受けた、仏教における「生老”病”死」の教えの中でも、人間は病気になる苦しさから逃れることはできないと説かれています。

ですから、障害者になるかも知れない確率も、病気に罹る確率も100%です。

障害を負うことなく、めでたく無事に天寿を全うしても、人間は必ず病気になりますよね。

 

精神の障害を抱えていたり、精神疾患に罹っていることは恥ずかしいことでもなく、差別されるようなことでもありません。

こういうことを差別する方が、よっぽど恥ずかしいですよ。

 

私が障害があっても、精神の薬を再開しても挫けることがないのは、先ほどお話ししたインド哲学に登場する「生老”病”死」の教えに影響を受けたからでしょう。

「生老”病”死」は素晴らしい教えです。

 

精神の問題に限らず、病院に無縁な人間はいません。

その心配がなくなる時は「生老病死」の最後の教え「死」に到達する時なのですから。

 

生老病死」の文字の順番を見てみると、生と死の間には年老いることと病気になることしかないとも読めます。

文字通り、人間は生きている限り、年老いて病気になる存在。

 

だから、インド哲学における仏教の教えを学んだ私は、精神疾患のことでも挫けることがなかったのでしょう。

 

人間は皆、年老いて病気になるのが当たり前の存在。

そう考えると、嘆き悲しむことはないのかも知れません。