今日は自閉症スペクトラム障害をサポートしてくれている病院に行ってきました。
最近、強迫性障害だと思うのですが、何の脈絡もなく不安を感じる症状が悪化しているので、そのことを主治医に相談し薬を調整してもらいました。
帰宅して夕方のニュースを見ていると、春らしく入学式のニュースも取り上げられていました。
真新しい制服に身を包み、緊張した表情で入学式に臨む様子は、見ている私も身が引き締まるような思いでした。
私が初めて学校の制服を着たのは、中学校に入学した時のことです。
真新しい制服を着て、また一歩大人になったなと感じていたものです。
さて、中学生になるとその制服を改造したり、規格外の着こなしをする生徒も一定数いますよね。
私の世代では、そのような生徒を”ツッパリくん”とか”ツッパリグループ”と呼んでいました。
そんなツッパリくんたちと生活指導の先生とのいたちごっこは、終わることはありませんでした。
指導して、その場では服装を改めても、生活指導の教室を出てしまえば、また改造した着こなしに戻る。
それを目ざとく見つけた生活指導の先生がまた注意する。
この繰り返しでしたね。
では、私はどんな生徒だったか。
今はハイテンションで元気なおばちゃんですが、中学生の私はかなり真面目で、可愛げのない生徒でした。
勉強が大好きで、成績は常に学年トップクラス。
緑大木とまとさんを知らない人は、中学校にはいなかったくらいです。(緑大木は仮名です)
こんな私でしたから、ツッパリくんたちのように制服を改造するなどもってのほかであり、私は当時の文部省推薦のような堅苦しい子供でした。
でも、私が堅苦しい子供だったのには紛れもない理由があります。
両親がかなり厳しかったのです。
服装の乱れは心の乱れ、などと生活指導の先生が言うような台詞を私に押し付け、かなり締め付けが厳しかったのです。
私は、ツッパリくんのグループに入りたいとか、制服を改造したいとか、そのような極端な思想はなく、ごく普通の生徒だったのに、両親がおかしな方向に先回りして私のことを締め付けたのです。
こういう締め付けは、中学時代の制服のこと以外でも、他にもいろいろな場面でありました。
高校は、私服通学で通える札幌南高校に進みましたが、毎日違う服を着て行ってはならないと、かなり変なことも両親に言われていました。
ピンクのマニュキュアくらいなら、私服通学の高校であれば許容されると思いませんか?
もちろん、学校的には何の問題もありませんでしたが、家庭で両親が許してくれませんでした。
これには私も反発しましたね。
校則もほぼなく、服装は一切自由であるのならば、ピンクのマニュキュアくらいは許されてもいいはずですよね。
それでも、両親は頑なにマニュキュア禁止令を突き付けてきました。
両親と私の対立は、要するに日本国の教育の問題に象徴されるようなことです。
管理され、個性を表面に出さないことを良しとする、窮屈な発想です。
私の両親はこういう人間なんですよね。
頭痛がしてきますよ。
一定の枠に収まり、余計な個性は発揮せず、上意下達で下りてくる指示には従うべしという価値観です。
中学生の頃は渋渋従っていましたが、その頃、私の母は”緑大木の子供には花丸をあげよう”と、すっかりいい気になっていました。
つまり、こうあるべきだ、そうあるべきだという枠に収まり、物言わぬ羊のように暮らすものには、ご褒美をあげようという権威的な発想です。
このような権威的な発想は、私が最も嫌うものです。
今の私は、権威的な発想の籠の中に閉じ込められていた反動が出て、かなりグレた大人になってしまいました。
私の母は、私の自閉症スペクトラム障害を理解せず、私が子供の頃から理解してこなかったことを反省もしていません。
私の障害をちっとも理解してこなかったくせに、権威的な枠の中で管理しようとしていた。
お母さん、そんなに私を苦しめて楽しいですか?
服装という表面上のことだけで判断し、その枠の中に閉じ込めようとすれば満足ですか?
”緑大木の子供には花丸をあげよう”などと、いい気になっている場合ですか。
こういういきさつがあるので、私は50代にしてグレています。
以前、「半グレおばちゃん」というタイトルにも書きましたが(3月7日のタイトル)子どもの頃に一番寛いでいたい家庭の中で、権威的なものに阿るようなことを求められたために、渋渋従っていた子供時代の反動が出ましたね。
半グレおばちゃんの私は、権威志向の母のことなんかは、もうどうでもいいですよ。
絶縁を言い渡してあります。
子供というものは伸び伸びと育てなくてはなりませんね。
私は50代にして、ようやく伸び伸び生きられるようになりました。
今後、管理されるつもりもありません。
着たい服を着て、食べたい物を食べ、やりたいことをやって生きていこうと考えています。