私は天邪鬼です。
他の人と違うことをするのが大好きです。
若い頃の私は、とにかく突っ張っていて、成人式の晴れ着の写真も撮っていませんし、大学の卒業式も定番の袴スタイルではなくスーツを着て出席しました。
成人式は嫌でしたねえ。
ウザいことこの上なかったです。
公式な成人式にはもちろん出席しませんでしたし、成人の日は特に何もせず普段通り過ごしていました。
成人式を拒否した理由は、二十歳が人生のピークであるかのように盛大に祝い、ここが人生の美しさのピークと言わんばかりに、着飾って晴れ着で記念撮影することに違和感や嫌悪感を感じていたからです。
当時の私が考えていたことは、こういうことでした。
二十歳が人生のピークではないし、殊更祝う意味を見出せない。
皆が揃って着飾り、集まって騒ぐ意味がわからない。
揃いも揃って同じ方向を向き、めでたい、めでたいとヘラヘラ笑う理由がわからない。
そう考えて、成人式は一切のことを拒否していました。
私は天邪鬼なのです。
人が右を向けば左を向き、集まって騒げばその群れを離れます。
物事に対しては、斜に構えて捉えることが多いです。
私は群れが嫌いなんです。
50代になった今もそうですし、ますます磨きがかかっています。
若い頃からこうでした。
どうして私はこうなのか?
若い頃は理由もわからず、時には衝突したりしていました。
最近になって考えられるようになったことですが、どうやら私の生まれながらの気質や障害に、その理由があるようです。
このブログでも触れてきましたが、私には生まれながらの障害、自閉症スペクトラム障害があります。
自閉症スペクトラム障害があると、空気が読めないであるとか、こだわりが強く思ったことそのままに行動してしまうであるとか、そういう傾向があるようですが、私も自分で思い当たるふしはありますね。
両親が楽しみにしていたであろう成人式や晴れ着での記念撮影を、真正面から拒否したり、皆が右に行こうとする時に私だけは左に向かったり。
自分の思うまま、思いついたらそのまま行動してしまうことが多く、若い頃は困ることはありませんでしたが、今の年齢くらいになって困ることが出てきました。
一般的な人と一緒に仕事ができない。
業務上の指示を受けても、指示の意味自体がわからない。
よって、一般的な仕事がこなせない。
今のところ、私は無職です。
では、私はダメ人間なのでしょうか。
天邪鬼で、人と同じことができない。
業務上の指示を受けても、指示通りに動くことが難しい。
その結果、仕事を辞めなければならなくなることもあった。
ダメ人間ではなくても、困ったちゃんとは言えると思います。
では、困ったちゃんではいけないのでしょうか。
私はそうは思いません。
人間は大なり小なり、困ったちゃんなところがあります。
私の困ったちゃん度数は100点満点に近いとは思いますが、だからと言って卑屈になったりはしません。
私の天邪鬼なところや困ったちゃんなところは、生まれながらの障害が影響しているのかも知れません。
であればこそ、ますます卑屈になったり、自分を過小評価したりはしません。
人間は一人一人違っていて、皆が困ったちゃんなところがあるはずです。
それは程度の問題でしかありません。
様々な意味で、人と違っていることはいいことなのです。
天邪鬼でも、突っ張っていても、斜に構えていても、人と違っていることはいいことなのです。
例えば、同じ生物が100匹いるとします。
そこに、違う生物が1匹だけ混ざっているとします。
100匹はそれまでの環境に適応し、残りの1匹はマイノリティとして隅に追いやられているとします。
ところが、ある日環境が激変するとします。
それまでの環境には適応できていた100匹は、環境の激変についていけず滅びてしまいます。
しかし、違う性質を持った残りの1匹は激変した環境に適応し、生き残ります。
このように、皆が同じ方向を向き同じような性質であれば、一気に滅亡してしまいます。
そんな時に生き残るのは、他の多くのものとは異なる方向を向き、性質も異なるものではないでしょうか。
私はこの100匹の群れの中に属するのではなく、異なる性質を持った1匹でありたいのです。
孤独なんかはクソ喰らえですよ。
一人ぼっち上等。
こうしてツッパって生きて、自分の弱点であるかのような障害も強みに変えていきたいですね。