昭和27年の十円玉

昨日は昭和の話について書きましたが、今日も昭和のお話です。

今、私の手元に昭和27年の十円玉があります。

 

いつ、どこでもらった物かはわかりません。

お金を一つ一つ、念入りに見ることはあまりないので、気がついたら手元にありました。

 

昭和27年、もう70年近く前ですね。

それほどまでに長い時間、この十円玉はどこをどう渡り歩いてきたのでしょうか?

 

とても貴重な気がして、使う気になれません。

ずっと手元に置いておきたいですね。

 

昭和27年、私はまだ生まれていませんでした。

両親もまだ学生で、私はまだ存在していませんね。

 

昭和27年に生まれた十円玉は、どんな風景を見て、どんな状況で、どんな人の手を渡り歩いてきたのでしょう。

 

昭和27年といえば、どんな世の中だったのか考えてみました。

太平洋戦争の終結が昭和20年ですから、それからまだ7年しか経っていなかったんですね。

 

興味深いのは、参考に見てみたあるサイトで、この年に亡くなった著名人が紹介されていたのですが、1800年代、19世紀に生まれた方の名前が出ていたことです。

昭和27年は、まだ19世紀生まれの方が生きていらしたのですね。

21世紀を迎えた現代から考えると、昭和27年はやはりかなり昔だと実感します。

 

昭和27年当時、私の両親はまだ学生で、それぞれが別の家庭で生きていました。

後に生まれる私は、父と母、半分ずつに分かれて存在していたのです。

 

自分という存在は、どこからが自分なのか。

生まれてからは当然、自分ですが、生まれる前、両親が知り合う前から、確かに私は存在していたとも考えられます。

 

昭和27年の私は、父と母、それぞれの側に分かれて存在していたのです。

そう考えると、双方の祖父母それぞれに四分の一ずつ分かれて存在していたことになります。

 

計算していくと、曾祖父、曾祖母の代では八分の一ずつ分かれて存在していて、さかのぼっていくと、自分がどんどん細切れになっていきます。

 

一体、私という存在はさかのぼっていくと、最後はどこに行きつくのか不思議な気持ちになります。

 

そういう時間の流れの中に、昭和27年という時代があります。

昭和27年には父と母のそれぞれに分かれて存在していた私ですが、まだ目に見える形では存在していませんでした。

 

そんな昔から、ひと足早く形あるものとして存在し、世の中を渡り歩いてきた十円玉。

金は天下の回りものとも言いますから、その言葉通り、あちらこちらを渡り歩いてきたのでしょう。

 

誰が、どんな時、どこで、この十円玉を使い、どこからどう、私の手元に来てくれたのか、70年近い時の流れを思うと感慨深い気持ちにもなります。

 

この十円玉は、手元に置いておこうと思います。

70年近く世間を渡り歩き、巡り巡って私のところに来てくれたのです。

 

私が形あるものとして生み出される前から存在していた十円玉。

神神しささえ感じます。

 

十円玉ですが、十円以上の価値、金額では計れない価値を感じます。

この十円玉が過ごしてきた時間の長さのぶんだけの価値があります。

 

小さな十円玉ですが、昭和27年から生き抜いてきた重みがあります。

 

その重みをしみじみ感じながら、大切に持ち続けていようと思うのです。