昨日も病院、今日も病院

昨日に引き続き、今日も病院に行ってきました。

昨日は子宮頸がん後の経過観察のため、今日は乳がんの検診に行ってきました。

 

昨日の経過観察は、良性の細胞ではなく異形成の状態だとお話を頂いたので、めでたしめでたしとは言えませんが、今日の乳がん検診は異常なしで、ひとまず安心できました。

 

毎年、同じ病院に通って乳がん検診を受けているのですが、乳がんの診断、治療では定評のある病院なので安心できます。

 

ところで、定期的に通院し、自閉症スペクトラム障害をサポートしてもらったり、双極性障害強迫性障害の治療を受けている精神の病院で、主治医に褒めてもらいました。

何を褒められたかというと、自発的に検診に行っていることを褒められました。

 

どこか具合が悪い訳ではなくても、自発的に定期的な検診に行っていることを褒めてもらいました。

 

私が検診に通う理由は、父と叔母が癌で命を落としているからです。

二人ともなかなか病院に行かず、進行した状態で癌と診断され、闘病生活は大変でした。

そして、治療の甲斐なく死んでしまいました。

 

病気は早期発見、早期治療が大切である。

二人の生きざま、死に方を見ていた私はそういう思いが強いです。

 

特に叔母は、父の妹なのですが、若くして乳がんで死んでしまいました。

叔母が死んでしまった当時、私はまだ10代で、なんとなく恐ろしいという感覚しか持ちませんでしたが、50代になり叔母が死んでしまった年齢をとっくに超えた今、乳がんの恐ろしさが身に染みます。

 

今は治療の技術も進歩しましたが、全ての癌は人類の敵です。

できるだけ早く見つけ、早くに治療をスタートさせることが大切だと、父と叔母がいなくなってしまってから、しみじみ思います。

人間はどんなに元気でも、必ず病み、必ず死ぬものなのだと実感しましたね。

 

では、必ず死ぬのだから、検診は必要ないのでしょうか?

検診を受けても受けなくても、必ず死ぬのだから、どうでもいいのでしょうか?

 

私はそうは思いません。

より良く生きて、より良く死ぬために身も心も手入れが必要だと思うのです。

 

自分の命は親からもらったものでしょうか?

それは間違いではありませんが、神や仏がいるならば、その人知を超えた存在から生まれることを許されたから、全ての人間は命を与えられているのだと私は考えています。

 

そういう不思議な巡り合わせから生まれてきたことを感謝し、与えられた体を手入れして大切に使うべきだと思うので、先ずは検診を受け病気を早く見つけられるよう努めたいですね。

 

私がこう考えるのは、昨日も書きましたが、大学生の頃に学んだインド哲学の影響です。

 

哲学は理系の学問のように、実験や最新のデータに支えられるものというよりは、学生生活を終えて年齢を重ねてからも、いつでも戻って思考できるものです。

特に私が傾倒した仏教の教えは、現代の人間にもあてはまるものです。

 

全ての人間が逃れられない、生まれる苦、年老いる苦、病む苦、死ぬ苦を説いた「生老病死」の教えや求めるものが手に入らない苦を説いた「求不得苦」の教え。

愛する者ともいつかは別れなければならない「愛別離苦」の教えやこれとは逆で、顔も見たくないほど嫌いな相手に出会ってしまう「怨憎会苦」の教えなど、年齢を重ねるからこそ実感できるものは多いです。

 

生きている間は修行の時間なのです。

その修行の一環に、自身の心身を健やかに保とうとする努力も含まれていると考えています。

 

50代になり、若い頃と比べて病気にも罹りやすくなってきました。

 

だからこそ、学生時代に学んだインド哲学の魂が私を突き動かすのです。