今日は定期的な通院の日でした。
今の病院は自宅から比較的近い場所にあり、通院に便利です。
一時はかなり回復していたのですが、元から治療していた双極性障害の状況が思わしくなく、治療が再び本格化しています。
また、以前は治療していなかった強迫性障害の兆候が顕著で、こちらも治療の対象になっています。
思えば私の精神疾患の治療歴は20年を超えています。
ただ、精神に変調を来したという自覚があるのは小学生の頃からですから、40年以上前から私は精神的な問題を抱えていたと言えます。
初めて治療に踏み切ることになったのは、まだ元夫と暮らしていた頃で、元夫は理解もあり治療にも全面的に協力してくれました。
しかし、実際には私は小学生の頃から精神的な問題を抱えていた訳です。
小学生の頃ならば、両親の理解と協力が欠かせませんが、全く理解されませんでした。
私の生まれながらの障害、自閉症スペクトラム障害についてもそうです。
子どもの頃に正確に診断されることなく、50代の今の年齢になりましたが、私の自閉症スペクトラム障害は今年に入ってから診断されました。
今年に入ってから自閉症スペクトラム障害と診断されたので、母に報告しましたが全く理解されず、以来、絶縁状態です。
今後、母に介護が必要になっても協力したくなくなりますよ。
自分を正しく理解しない相手に協力できる訳がありません。
上述したように、小学生の頃から精神の問題を抱えていた私に対しても、何のサポートもありませんでしたし。
高齢になったから、介護が必要になったからと虫のいいことを言われても、こちらこそ困ります。
話が脱線しましたが、私の精神の問題の履歴はこのような経過を辿ってきました。
元夫が協力してくれて初めて、精神疾患の治療をスタートさせることができた訳ですが、その後離婚して独身に戻った私は、今は一人で治療に向き合っています。
人からは、たまに”一人で寂しくないのか”と尋ねられることがありますが、全くそうは思いません。
私は一人の方が好きですね。
それでも、結婚している頃は元夫は全てにおいて力を貸してくれました。
大学病院の閉鎖病棟に入院していた頃も、その後、その大学病院に通院して治療していた頃も、全てにおいて協力してくれましたね。
そこまでしてくれても、離婚する時は離婚しますが、だからこそ人生は面白いのだと考えています。
最初に精神の問題を発症しても、理解されず治療も受けられなかった頃を経て、その後はその正反対、理解と協力を得られて治療に専念できた時期もありましたが、今は一人で問題に向き合っています。
一人の方が問題を正しく捉え、何をすべきかが見えるような気がします。
他の誰に頼ることもできない状況に自らを置く方が、問題を冷静に把握し対処できるような気がします。
今の私を支えてくれるのは、主治医と病院にいるケースワーカーさんですね。
民間のクリニックから始めた精神疾患の治療ですが、その後、大学病院の閉鎖病棟に入院し、退院後も10年以上通院しました。
今通っている病院も、いつまで通うことになるのかはわかりませんが、私の考え方はこうです。
闘病と書くように、病気と闘うということは、しないでおこうということです。
癌の経過観察も未だにしているのですが、病気と闘おうという考えはありません。
うまく付き合おうと考えています。
この考えは、大学で学んだインド哲学に影響されて出来上がった考え方です。
インド哲学が扱う仏教の教えに「生老病死」というものがあります。
人間は生まれる苦、年老いる苦、病気になる苦、死ぬ苦から逃れられないとする考え方です。
人間は必ず病気になるのです。
必ずそうなる運命とは闘いたくない。
これが私を支えている考え方です。
精神の問題が今後どうなっていくのか、それは神様か仏さまにしかわかりません。
今、この時を文字通り懸命に生きるのみです。