今日は昔のことを思い出していました。
小学生の頃、仲良くしていた友達の家がお寿司屋さんでした。
一度だけ食べに行ったことがあり、その頃のことからその後のことを思い出していたのです。
一度だけ食べに行ったお寿司屋さんは、小学生の頃に仲良くしていた友達のお父さんが経営していました。
今では大手のチェーンによる回転ずしが増え、個人がお寿司屋さんを経営するというスタイルは珍しくなりましたね。
小学生の頃、仲良くしていた友達のお父さんが経営していた小さなお寿司屋さんは、一度だけ新聞のチラシで広告を入れてきました。
割引価格でお寿司が食べられるという内容だったと思います。
そこで、私、弟、父の三人で食べに行きました。
割引価格でお寿司が食べられるその日に行っただけであり、その後、そのお寿司屋さんは廃業しました。
根掘り葉掘り聞くのは、友達に申し訳ないので細かいいきさつはわかりませんが、お寿司屋さんを経営していたお父さんは、その後家族と別れて行方知れずになっていたようです。
私が大学生の頃だったでしょうか、その友達からお父さんが亡くなったと聞かされました。
死因は癌で、死んでから家族に連絡が入ったようです。
小学生の頃、一度だけ店を訪ね、気前よくお寿司を握ってくれていた方が意外過ぎる最期を遂げたと知った時は驚きましたし、人生の儚さを感じました。
私の父も癌で命を落としています。
気前よくお寿司を握ってくれていた、友達のお父さん。
私と弟をお寿司屋さんに連れて行ってくれた父。
二人ともこの世界からいなくなってしまった。
あんなに元気な大人だったのに、二人とも儚く消えていってしまった。
今日はそんなことを考えていました。
人間は皆、死んだ後は何処へ行くのでしょう?
お寿司屋さんに連れて行ってもらった時、私はまだ小学生でしたから、人が必ず死ぬということ、周りにいる大人の命に限りがあること、それらのことに対して実感することはありませんでした。
今の私は50代。
この年齢になると、自分の命に限りがあることは実感できますし、今日思い返していたように周りにいた大人が死んでいったことも、何の不思議もないと思えます。
では、果たして人間は死んだら何処へ行くのでしょう?
古今東西、天国と地獄について語られる話は尽きることがありません。
人間は大昔から、死後は何処に行くのかについて思いを馳せたのでしょう。
私にとっては、生と死の問題といえば、やはり大学で学んだインド哲学における「生老病死」の教えです。
人間は、生まれる苦、年老いる苦、病気になる苦、死ぬ苦から逃れられないという教えです。
人間は必ず病み、年老いて死ぬ。これが人生の本質です。
この教えを学び、心酔した私は、小学生の頃に仲良くしていた友達の家に、お寿司を食べに行ったことも「生老病死」の教えに重ね合わせて考えてしまいます。
まだ小学生だった私をお寿司を食べに連れて行ってくれた父、もてなしてお寿司を握ってくれた仲良しの友達のお父さん。
二人ともあんなに元気だったのに、癌になり儚く死んでしまった。
あんなに元気でも、人間は必ず死を迎えて消えてゆく。
そして、死後は何処へ行くのか?
考えても考えても答えが見つかりません。
「生老病死」の教えは理解できても、「死」のその後の道筋は何処に繋がっているのか?
答えは見つかりません。
私も50代になり、漠然とではありますが、この世の自分に終わりがあることがわかるようになってきました。
幼い頃、周りにいた元気な大人たちは次々と消えていきました。
皆、あんなに元気だったのに消えていきました。
皆、何処へ行ってしまったのでしょう?
儚さを感じずにはいられません。
こればかりは、自分が死なないとわからないことです。
それでも不可思議です。
人間は何処から来て、何処へ消えていくのでしょう。