無病息災よりも万病息災

「無病息災」の意味は、病気にならずに健康で元気であるということです。

また「一病息災」とは何の病気もないことよりも、一つくらい持病がある方が却って長寿であるという意味です。

 

しかし人間は皆、必ず病気になります。

病気に罹らない人はいませんよね。

ですから、一病息災の意味の通り、一つくらいは病気を抱えている方が健康的だという教えには頷けます。

 

私はもう一歩踏み込んで「万病息災」の方が、もっと健康的であると考えます。

持病があったりして、定期的に病院に行く習慣がある方が寧ろ健康的だと思います。

 

私は定期的に病院に通う生活をしています。

精神の専門の病院と癌の経過観察で婦人科に通っています。

 

精神の病院は、双極性障害強迫性障害の治療、そして生まれながらの障害、自閉症スペクトラム障害のサポートを受けるために通っています。

精神疾患と障害。

このように書くと、さぞ大変だろうと思われそうですが、そうではありません。

自分の置かれた状況を正しく把握し専門医のサポートを受けられることで、特に自分の障害について、どう付き合っていけば良いかかが見えてきます。

 

それから、癌の経過観察ですが、10年近く前に子宮頸がんの手術を受け、その後の経過観察がまだ続いています。

10年近く経ってもまだ完治していません。

 

これだけの時間が経っても、未だ完治のお墨付きをもらえないことを不幸と思うか、思わないか。

不幸だとは全く思わないですね。

定期的に病院に通うことで、自分の健康状態に注意深くなることができます。

 

人間は必ず病気になる存在なので、健康を過信してはなりません。

健康自慢の人に限って、何か病気が発見されたら、深刻な状況に陥っているということもあり得ますね。

 

それは私の父です。

病気をしたことがない健康自慢でしたが、体調不良で我慢できなくなり病院に駆け込んだら、進行した癌でその後亡くなりました。

 

健康を過信するあまり、なかなか病院に行かなかったことで命を落としたも同然です。

それよりも、病気になることを当たり前のこととして考え、病院に行くことを習慣化する方が良い。

私自身、病院に行くことが日常化しているので、そう考えています。

 

健康自慢はある意味、自慢するようなことではありません。

人間は必ず病気になる存在なので「無病息災」を理想としても、そうはいかないですよね。

 

若い頃、初めて人間ドックに行った時のことです。

まだ30代と若かった私は、全ての検査項目においてA判定でした。

健康体であることを保証されたとも言えますが、最後に検査結果の説明をしてくれる医師と面談し、最後の帰り際に「(事故に)お気をつけてお帰りください」と言われ、思わず爆笑したことがあります。

 

そうなんですよね。

健康、健康と言っておいて帰る途中で事故に遭ってしまっては、元も子もありません。

 

「無病息災」を理想とするよりも、理想通りではない「万病息災」の方が人間としての本来の姿であると思います。

あちらこちら、気を付けて観察するからこそ病状が悪化せず、結果的に長寿になるのかも知れません。

健康自慢だった父が早くに病死して、自身も障害や持病を抱えていることで、益々そう思うようになりました。

 

健康自慢は寧ろ危ういと言えます。

人間は必ず病気になる存在です。

ある日、病院に駆け込んだら手遅れ。

私の父のような運命を辿らないとは言い切れません。

 

「無病息災」の理想を追うより「万病息災」の現実と向き合う。

それが賢明だと考えます。

 

物事は何でもそうですが、理想を追うことを大切にしつつも、現実と賢く向き合うことで良い結果が出るものです。