夏休み

もうすぐ夏休みシーズンですね。

多くの人は夏休みが近づいてくるとワクワクすることでしょう。

 

私は幼い頃は保育園に通っていましたから、小学生になってから本格的な夏休みを経験するようになりました。

しかし、待ちに待った夏休みだというのに、私はどこにも出かけず毎日毎日家に一人でいただけだったのです。

 

母も仕事をしていて、私が小学校一年生の頃は弟は保育園に行っていましたから、朝から夕方までずっと一人で過ごしていました。

その頃、私は来る日も来る日も海を見て過ごしていました。

当時、海の近くに住んでいたんですよね。

 

小学校一年生の頃、初めて迎える夏休みにも関わらず、私はなぜ外で遊ぶこともせず家の中で一人で過ごしていたのでしょう?

なんとなく一人でいる時間の物悲しさのようなものに浸っていたのでしょう。

私は子どもの頃は、変に大人びた子どもだったのです。

 

大人びた考え方をして、他の子どものように無邪気に過ごせないのは、私が元来持っている気質なのでしょう。

もしかしたら、生まれながらの障害・自閉症スペクトラム障害の影響があるのかも知れません。

 

今でも私は多くの人と連むよりは一人で過ごす方が好きです。

小学校一年生の頃、初めて迎える夏休みにも関わらず、両親とも仕事に追われる生活でどこにも連れて行ってもらえないことはわかっていましたし、仕事で忙しい母に何を言っても聞いてはもらえないのだと、諦観のようなものを感じていたのかも知れません。

初めての夏休みは誰とも連むことなく、どこか物悲しい思いで過ごしていたのです。

 

さて、このように変に大人びた子どもだった私ですが、成長するにつれて羽を広げるようになっていきました。

夏休みの過ごし方でも、外に向かって何かをすることが多くなりました。

 

大学生になると、小学校一年生の頃の私とは正反対の方向に進むようになります。

夏休みにしかできないアルバイトに精を出し、敬愛するTHE ALFEEの夏の大イベントに出かけるようになったりと、大学生になると盛んに活動するようになりました。

 

夏休みに限らず、私の行動パターンはそうです。

子どもの頃は大人びていて、成長し大人に近づくにつれ、羽目を外すようになる。

 

その理由は上述したように、仕事に追われる割には賃金が低く、貧しい生活しかさせてくれない両親に対する不満や不信感のようなものを抱いていたことですね。

子どもらしく無邪気にしていたところで、それに応えてくれる両親ではないと見限っていたのです。

ですから、小学校一年生の頃、胸を躍らせるはずの初めての夏休みにも、何の期待も持たなかったのです。

 

両親に何の期待も信頼も持てなかったので、子どもの頃は大人びていて、大人になるにつれ自分の力を発揮し羽目を外すようになったのです。

夏休みの過ごし方一つ取っても、家庭の本質が表れています。

 

楽しいはずの夏休みも、幼い頃は何も期待できませんでした。

それを埋め合わせるように、大人になるにつれ羽を広げるようになっていったのです。

 

信頼できず、期待もできず、私に見限られていた両親、父はずいぶん昔に死にましたし、母は高齢になりました。

気難しい父が早く死に、介護の心配をしなくて済みましたから、正直清清しています。

未だ生きている母のこともどうでもいいですね。

介護はボイコットしようと思っています。

あの二人は、私が子どもらしく夏休みを過ごそうにも、できない原因を作ったのですから、私に見限られて当然です。

 

これから何回夏が来ても、その思いは変わることはありません。