夫婦別姓と地動説

一昨日からずっと夫婦別姓の話をしていますが、今日も続けます。

夫婦別姓の法制化をめぐる議論はいささか不毛であることが否めません。

 

賛成派、反対派の議論はどこまで行っても平行線です。

私はもちろん賛成派です。

自身と元夫が実践していましたから。

 

さて、夫婦別姓に賛成でも反対でも意見は尊重し合わなければなりませんが、この不毛な議論は大昔の天動説と地動説をめぐる議論のようにも思えます。

 

反対派の多くは伝統を守ることを理由に夫婦別姓に反対していますが、別姓という選択肢が加わることで揺らぐほど伝統とは脆弱なものなのでしょうか?

私は違うと思います。

選択肢を増やすことに対する反発はどこから来るのでしょう?

そんなに自信たっぷりに主張するのであれば、別姓という選択肢を増やしたところで同姓は揺るぎないものだと思うのですが。

 

ところで、私は高校生の頃に世界史を学んでいました。

そこで天動説と地動説をめぐる歴史についても知ることができました。

 

天動説はヨーロッパでは宗教的な観点からも支持されましたが、異を唱えて地動説を説く者は異端扱いされていたようです。

 

いつの時代もそうですが、既成のものが支持され、そこの枠からはみ出すものはなかなか理解されません。

では、変化を嫌い既存のものに甘んじているだけで良いのでしょうか?

 

そうではありません。

変化を恐れず、それまでは存在しなかったものも理解することで発展はあるのです。

変化を恐れ、嫌うようでは未来はありません。

 

天動説はかつて主流でしたが、後に地動説が取って代わっています。

結婚の形も既存のものだけではなく、それまでなかった概念を付け加えていくことが必要です。

 

今のところ、夫婦別姓は法制化されておらず、反対の声も根強く、別姓希望者は少数派かも知れません。

しかし、既存のものにしがみついているだけでは前進はありません。

 

天動説に象徴されることは宗教など思想的な価値観に縛られて既存のものにしがみつくことであり、地動説に象徴されることはそれまでの既存の価値観に囚われないことです。

 

夫婦別姓に反対する側は伝統という錦の御旗を掲げますが、何やら天動説にしがみついた勢力と同じような匂いがします。

一種の思想に囚われ、それに合致しないものは徹底的に退けるという狭量さを感じます。

ただ単に選択肢を増やすだけなのに、何を恐れているのでしょう。

そのうち、空が落ちてこなければよいのですが。

 

変化を嫌えば発展はなくなります。

 

さて、先ほどテレビでニュース速報を見たのですが、東京都の感染者数はまた増えているようです。

どうしてこういうことになるのでしょう?

日本は大丈夫なのでしょうか?

 

残念ながら日本は変化を嫌い、発展を望まなくなってしまったのではないでしょうか?

特に若い層が心配ですね。

 

感染が収束していないのに屋外で飲酒しながら無軌道に騒いだり、何ということでしょう。

私は驚いてしまうのですが、若者の多くは現状に満足し変化を嫌っているようです。

 

豊かな時代に生まれ育ち、食うに困らなくなれば、人間はそういう風になってしまうものでしょうか?

私はそうではないと考えます。

牙を抜かれ、爪を折られ、無軌道に目先の享楽にどっぷり浸かってはなりません。

 

常に尖っていなければなりません。

 

現状に満足しきっている姿は、天動説を支持し、宗教的な決定を妄信した大昔の人々と重なります。

何事もそうですが、常に自身の頭で考え、既存のものを疑い、変化に対して果敢に挑戦しなければなりません。

 

もしかしたら、地動説さえも正しくない概念かも知れません。

夫婦別姓どころか、結婚という概念が消える時が来るのかも知れません。

 

真実はいつも自分の目で見て、耳で聞き、手で触れるものなのです。