敬老の日といっても、素直に喜べない

本編の前にお知らせです。

「とまとの呟き」の姉妹版・小説を書いています。

「とまと文学部」で今は「海の向こうの大阿呆」というタイトルのものを公開中です。

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~ここから本編~

今日は三連休の最終日、敬老の日なんだそうです。

毎年そうですが、テレビでニュースを見ていると国内の高齢者の方々の話題が伝えられます。

 

しかし、今の日本で敬老の日は素直に喜べるのでしょうか?

今や国内の高齢者の割合は30%近くにまで増加したとも報道されていましたよね。

若い人が子供を作らず(作れず)高齢者の数がどんどん増えていく。

不安になるのは私だけでしょうか?

 

私の父は早くに病死しましたが、80代後半の母が”残って”います。

はっきり言うと、母がダラダラ長生きすることで家族がみんな不幸になるんですよね。

 

弟は仕事に家庭生活に忙しく、母にかまっている暇はありません。

私も自分のことで精一杯です。

 

そもそも、私には母の面倒を見る意思がありません。

 

私の障害を理解せず、理解してこなかったことを反省もしない母の尻拭いは御免ですね。

 

こういう家族、少なくないのではないでしょうか?

 

どうも昔の人というのは歳を取ることに対する自覚がない。

私はそう思います。

 

馬齢を重ねるとまでは言いませんが、意識と自覚が足りません。

若い頃からもう少し自覚をして、歳を重ねても人様の世話にならないことを目標にできないものでしょうか。

腹立たしささえ感じますね。

 

こういう高齢者は今の日本にいったい何人いるのでしょうか。

 

はっきり言って、若者は高齢者に搾取されているも同然です。

働いても働いても社会保障で給料から天引きされています。

社会保障は破綻に向かってまっしぐらです。

これは若者虐待ですね。

 

私は母の今後についてはボイコットを宣言しました。

弟にもそう伝えています。

私の障害に対する理解が足りなさ過ぎます。

それで尻拭いをしてくれとは虫が良すぎます。

 

こういう高齢者っていますよね。

いい加減にしてほしいですね。

 

若者は高齢者にご奉仕するために生きているのではありません。

高齢者を無条件に尊敬するのはもう古い価値観だと思います。

これからは尊敬されるに値する高齢者を選んだ方いいと思いますね。

若者はもう限界なのです。

 

私の母は病院が大好きです。

週に何日かはかかりつけの病院に通っていますね。

 

入れ歯が合わないとか、補聴器がよく聞こえないだとか。

しかし、それは医学的に生命を脅かすものなのでしょうか?

貴重な医療費を食いつぶしてまでやることなのでしょうか?

 

母はよく言います。

早く死にたいと。

であれば、病院に行くのを止めたらどうなんでしょうか?

 

口ではぐちぐち言っていても、せっせと病院に通っていては長生き街道まっしぐらだと思いませんか?

このような支離滅裂ぶりに若者は振り回されているのです。

 

我が緑大木家の様子は(緑大木は仮名です)日本の縮図のような気がしてなりません。

敬老の日、素直に喜ぶことはできませんね。

 

本来、死んでいても不思議ではない人間が死ぬタイミングを逸してしまって、若い者の負担になっている。

 

今、日本では政局の話題で持ち切りですが、何より大切なことはこの高齢化をどうやって乗り切るかということです。

出生率を上げるか、移民で若い外国の方に入ってもらうか、或いは人生自体に定年を設けるか。

高齢者ばかりが増えて社会保障は破綻寸前。

 

戦争でもなく、天変地異でもなく、国はこういうところから滅びるのでしょう。

敬老の日といっても、素直には喜べません。