本編の前にお知らせです。
「とまとの呟き」の姉妹版・小説を書いています。
新しい作品「六十年後の未来に来てみたけれど」を公開しています。
今は第三十九話めを公開しています。
連載形式ですが、途中からでも、一話ずつでも読めますよ。
話の展開がわかりやすくなるように、主な登場人物の解説つきです。
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よろしくお願いします。
tomatoma-tomato77.hatenablog.jp
~ここから本編~
今日は久々に弟から電話がきました。
話題は年老いた母のことや近況報告でした。
弟は一般的な会社員で、私と同じ50代。
会社では忙しい立場にありますし、お嫁さんは病気がちで高校二年生の娘もいます。
年老いた母のことは、私と弟にとって頭の痛い問題ですね。
母本人はそろそろ施設への入所を考えているのですが、話が前に進んでいません。
話が進まない理由は母の年金額が少なく、年金だけで賄える施設が限られてしまうことですが、それだけではないですね。
おそらくですが、施設に入れば自宅で過ごしたように気ままではいられないでしょう。
それを母は嫌っているのではないかと思うのです。
要するにわがままですね。
はっきり言って迷惑な話です。
誤解を恐れずに言うなら、母はいつまで生きるのでしょう。
迷惑ですね。
年老いた親との関わりは綺麗事では済まされません。
私がこう考える大きな理由は、母が私の障害に理解がないことにあります。
幼い頃からそうでしたが、私に無理に良い子でいるよう強いてきたんですよね。
障害に理解がなく、そういう子供として私に接してこなかった。
早い時期、子供の頃に障害がわかり、そういう子供として育てられていたら、私は今になって苦労はしていません。
そう思うと母のことは嫌いですし、許せませんね。
そういう人間が私たち、若い世代が納めるお金でのうのうと生き続ける。
如何なものかと思います。
無駄な長生きは無用です。
昔のようにかなりの高齢になるまで生きる人数がそう多くなければ、なんとか支えていけるのでしょうが、若者や子供の数が減り、高齢者ばかりが増えると福祉は破綻してしまいますよね。
その縮図が我が緑大木一家の日常です(緑大木は仮名です)
母は昔、介護の仕事をしていました。
だから、わかると思うんですよね。
高齢者との関わりは綺麗事ではないのです。
母が介護の仕事をしている頃、話してくれたことはたくさんありますが、印象に残ったのは長生きするあまりお子さんに先立たれ、お孫さんに面倒を見てもらっていた利用者さんがいたという話でした。
体調を崩したりすると、お孫さんに連絡し様子を見に来てもらうのですが、ある日こう言われたそうです。
いちいち呼び出さないで下さい。死んだら連絡して下さいと。
そのお孫さんの気持ち、大いにわかります。
語弊はありますが、いつまでも長生きされては若い者の生活を圧迫するのです。
母自身も長生き無用と言っているのですが。
父は早くに病死しました。
人間は惜しまれつつ、この世から去り難いと思っているうちに片付く方が、本人も周囲も幸せなのではないでしょうか。
高齢になった親との関わりは綺麗事ではありません。
自分の親だからこそ、早く片付いて欲しいと思いませんか?
私は上述したように、幼い頃から母との関係は良好とは言えませんでした。
ですから、余計に老醜をさらす母からは距離を取りたいですね。
昔は介護の仕事をしていて、今は自分が厄介者扱いされる母。
人生とは皮肉の連続です。