介護者の言葉

本編の前にご案内です。

この「とまとの呟き」の姉妹版で小説を書いています。

タイトルは『アンドロイドの楽園』といいます。

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よろしくお願いします。

tomatoma-tomato77.hatenablog.jp

私はこのブログ以外では、ネット上でTwitterで活動しています。

Twitterって面白いんですよね。

いろんな人がいます。

その中でも注目していて、発言の一つ一つに関心が引かれるアカウントがあります。

 

その方は介護施設で働いている方のようですね。

介護の大変さや利用者さんと直面する問題、或いは現場を管理する事務部門に対する思いなどを投稿しています。

 

非常に興味深いアカウントなんですよね。

まず、内容が綺麗事ではありません。

切実な現場の声をありのままに呟いています。

 

介護のお仕事、大変なお仕事ですよね。

私の母も30数年ほど前に従事していました。

2月18日の「姥捨て山」でも書きましたが、母は介護の仕事をしていて、自分の職場を”姥捨て山”と呼んでいました。

 

そうですね。言い得て妙です。

介護って綺麗事じゃないと思うんですよね。

上述したTwitterで見かけるアカウントの方の投稿からも、それが伝わってきます。

 

自分が誰かもわからない、家族の顔もわからない、排泄物を壁に塗りたくる、徘徊する、そうなってまで生きている意味って何でしょうか?

或いは、鼻からチューブを入れたり、胃ろうをして栄養素だけを強制的に入れられる。

これは果たして人間として生きていると言えるのでしょうか?

 

よく言われることに、人間の尊厳という言葉がありますが、強制的に栄養を与えられるだけになったり、人としての判断力を失って生活することが尊厳のある人生なのか。

私は甚だ疑問ですね。

 

私はブログやTwitter以外では、ネット掲示板のような交流の場を見ることもあるのですが、堂々と安楽死について意見交換が行われてるところもあります。

私は賛成ですね。

人間として生きられなくなったら、自分のことも家族のこともわからなくなったら、排泄物をもてあそぶようになったら、徘徊するようになったら、人間を卒業したいです。

 

今の社会では綺麗事が優先しているように感じます。

本当の人間の尊厳って何でしょうね?

 

私にも高齢の母がいるので他人事ではありません。

幼い頃から母とはいざこざがあったので、介護なんてまっぴら御免ですね。

2月18日のテーマ「姥捨て山」にもあるように、母のことなど施設にポイ捨てしようと思っています。

あのような人間に貴重な税金や社会保障費を注ぎ込むのも無駄だと思いますしね。

語弊はありますが、早くいなくなってもらわないと困るんですよね。

私にも弟にも迷惑なのです。

 

本人は私にも弟にも迷惑をかけないと言っていますが、違うんですよ。

あの人は生きているだけで迷惑な存在です。

 

綺麗事は排除ですね。

Twitterでよくお見かけする介護職の方の呟き、非常に共感できます。

その方は穏やかな表現を使っていますが、言いたいことは上記の私の言い分とほぼ同じとお見受けしました。

 

残念ですが、ある一定の年齢を超え脳の働きも衰えてしまうと、人間であって人間ではなくなると思うんですよね。

そこに如何にして綺麗事抜きで立ち向かうことができるか。

安楽死は究極の選択でしょうが、あり得ないことと退けることでもないと思います。

 

福祉の制度や法律の整備など、やらなければならないことは目の前に山積しているのです。