結婚で改姓した父は鬱になってました

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tomatoma-tomato77.hatenablog.jp

写真はイメージです。

 

私はSNSを眺めるのが好きです。

一番盛んに活動しているのはX(Twitter)ですね。

私は今でもTwitterと呼んでいるので、これからここではTwitterと言うことにします。

中でも夫婦別姓の話題には注目しています。

父が名前のことで苦労していたからです。

 

今日はテーマそのままですね。

私の父はもうずいぶん昔に病死しましたが、昭和30年代に結婚して母方の姓に改姓しました。

理由は母の兄から頼まれたからだそうです。

母方の実家は漁師で、母と兄の二人兄妹、漁師の仕事は危険が伴うので兄が死ぬようなことがあれば家系が途絶えてしまうと言われたそうです。

 

それと父は8人兄弟の7番目、三男であったことで父方の身内も「どうぞどうぞ。●〇も△▼も同じだ」と父の改姓を他人事のように受け流していたそうです。

このことは私が成長してから父に聞きましたが、父は三男だからどうでもよく扱われ不快だったと言っています。

 

父は母に惚れ込んで結婚したい一心で母の兄からの求めに応じたのですが、それでもやはり旧姓の●〇から母方の姓△▼になったことで割り切れずにいたようです。

鬱っぽくなってしまったとも言っていましたね。

 

父が死んでから母に聞いたのですが、私がまだ小学校低学年だった頃に父と母は一旦離婚して父の姓で婚姻届けを出し直そうか相談したそうです。

今では一般的になっているペーパー離婚ですね。

父が鬱っぽくなってしまうほどだったので二人で考えたんでしょうね。

母はこう言っていました。

「あの公園のあのブランコ、隣り合って座って話し合ったんだよ」

わかります。

私はあの公園のあのブランコでよく遊んでいたのです。

 

結局、両親はペーパー離婚することなく父が病死するまで添い遂げました。

私が小学校低学年の時代ではペーパー離婚は容易でなかったからだと母は言っていましたね。

 

父は結婚して母方の姓になったことで苦労があったことでしょう。

今でも結婚で女性の方の姓を選べば「婿養子」だの頓珍漢なことを言われます。

昭和30年代なら父の苦労はどれほどのものだったか想像するのは難しいことではありません。

 

父はいろいろな苦労をして不寛容が最もあってはならないことだと痛感したしたのでしょう。

私には広い視野を持ち、寛容で他者を尊重するようにという願いを込めた名前をつけてくれています。

私は父の願いを守っていきます。

 

結婚しても自分の名前のまま。

こんなこともできないようでは日本は必ず沈みますね。

父のような思いをする人がいなくならなければ日本に明日はありません。