自己肯定感の塊

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tomatoma-tomato77.hatenablog.jp

写真はイメージです。

 

私は自己肯定感がかなり高いです。

幼い頃からずっとそうです。

しかし自己肯定感が高まる育ち方は全くしてきませんでした。

 

主に母の言動が私を不快にしていました。

父はそうでもなかったのですが、とはいえ昔の人間なので男だからという理由で父は育児に関わっていなかっただけのことです。

 

母の言動の中で最も不快だったのはこういうものです。

「大人になったら”嫁ぎ先”に気に入られなさい。家事が完璧にできるよう、とまとを躾けたから”どこに嫁に出しても恥ずかしくない”」

 

何ですか、これは?

私はまだ小学校四年生くらいでしたが、かなり違和感があり不快でした。

 

私は結婚はしても家政婦にはなりませんから、家事ができることをドヤ顔で讃えるのはおかしいですね。

完璧に躾けたとは傲慢ですね。

私は母の型にはまるだけの存在ではありません。

結婚とは結婚する相手と対等な関係で自分自身の幸せを追求することです。

私は小学校四年生くらいの時点でそう考えていましたから、母の言っていることはおかしいと思いましたし今でもそうです。

 

そもそも「嫁に出す」「嫁ぎ先に気に入られる」というのがおかしいですね。

私という人間のオリジナリティを否定するものです。

ただ単に卑屈になり、気に入られるよう努めるだけならそれは私でなくてもいいですよね。

他の誰でもよく、既存の枠に収まりさえすればいいですよね。

私という独立した個人を否定することです。

 

これは承知できませんね。

これ以外にも母は私を否定し、不快にさせることしか言っていません。

 

普通、幼い頃からこういう扱いを受けると卑屈な人間性になりそうなものですが。私はそうではありません。

これこそが私のオリジナリティです。

卑屈になれと求められれば、絶対に撥ね退けます。

 

母の不快な言動、私を狭い枠に押し込めようとする考え方、接し方が寧ろ私の自己肯定感を高め、堅牢なものにしてきたのです。

私は何事についてもそうです。

 

逆境に強く、マイナスをプラスに変えることに長けています。

母のような言われたことしかできず、それを信じ込むしか能のない人間とは全く違います。

母、救いようのない馬鹿なんですよね。

 

幼い頃からそうでしたし、母は全く反省していないので90歳近くなっても今は放置、シカトしています。

介護をする気は全くないですね。

母が謝罪すれば話は別ですが。

 

私の自己肯定感の高さは母のおかげですよ。

ありがとうございます。

最大の皮肉ですね。