やるからには勝つ!!

やるからには勝つ!!

 

今日のこのテーマとは関係ないですが、明日、パソコンが新しくなります。

明日、業者さんに来てもらい初期設定をお願いするのですが、特に問題なければ新しいパソコンから、とまとの呟きを書きたいですね。

 

ところで、やるからには勝つ!!

 

昨日は思い切って、毒吐き的な文章にしてしまいました。

はっきり言って馬鹿だと思うと発言したり。

 

SNSなどが発達しすぎたのか、語彙が乏しく、表現が貧しい投稿も目につくようになったので、そう思ってしまいます。

 

わああああああああああああああああああ!!

おもしろいいいいいいいいいいいいいいい!!

 

単なる事実と感想の垂れ流し、形容詞の羅列的な表現は嘆かわしいです。

もっと日本語の良さを大切にして、ビジュアルに依存しない、きちんとした文章で表現して欲しいと考えます。

 

1990年代後半から2000年代のはじめ頃、テキストサイトが流行したように、しっかりした文章で構成されるものが、また登場して欲しいですね。

テキストサイトで発表されたもので有名なものに「侍魂」があります。

あのサイトは文章が主ですが、面白いんですよね。

 

ところで、今日のタイトル「やるからには勝つ!!」

 

こちらの「とまとの呟き」は、今までサブの方のブログとして展開してきましたが、メインの方としていたブログ「小説・スカイゾーン」は休刊することにしました。

 

内容や出来ばえが気に入らないのです。

自分で書いているので、ますます気に入らないのです。

 

削除はしませんが、更により良いものにしたいので充電したいと思い、休刊にしました。

 

昨日、自閉症スペクトラム障害をサポートしてくれる病院に行ってきたのですが、いつも主治医とはいろいろなことを話します。

ちょっと不安定なので、以前服用していて、止めていた双極性障害の薬をまた出してもらったり。

 

それから、生活のことを相談したり。

今後、障害者枠で就労継続支援の職場で働くのか、職業訓練などを受けて一般企業で働くのか。

 

すぐに決めなくてもよく、職業訓練やその前提となる適性検査を受け、じっくり考えてもよいのではないかと主治医からアドバイスを受け、更に当面の生活費の確保のために、生活保護の申請も選択肢に入れることなど、主治医は全面的に賛成してくれました。

 

ブログを休刊したり、仕事探しにじっくり取り組んだり。

やるからには勝つ!!と考えています。

 

仕事探しは、私に本当に合うものを探し求めて、今後の人生を有意義なものにしたいので、やるからには勝つ!!の気合いで頑張りたいですね。

 

50代になるまで、自閉症スペクトラム障害が正しく診断されず、誤った道ばかり無理して進んできてしまったので、正しい道を見つけて人生を切り開きたい。

やるからには勝つ!!の心境です。

 

そして、休刊するブログ。

これも、やるからには勝つ!!です。

 

文章が固いという問題点はもちろんですが、話の展開が総花的でまとまりがなく、一番肝心な物語のテーマが見えづらいものになっていた点は、大いに改めなければならないことです。

 

何事もやるからには、より良いものを求めて試行錯誤する。

私はいつもそう考えています。

 

今までは、はてなブログで公開していましたが、小説形式であれば小説のサイトに出した方が良いのではないか。

主治医にもアドバイスされましたし、そう考えて、小説のサイトへの投稿を目指します。

 

小説のサイトには、書籍化されるようなレベルの高い作品を出していらっしゃる方も多いので、大いに刺激を受けられます。

そこに出しても恥ずかしくないものを書きたいと、発奮しますね。

 

夢はでっかく、私の作品も書籍化を目指す!

ついでに、アニメ化を狙う!

やるからには勝つ!!

 

今度は、作品のテーマやコンセプトを練り上げ、深掘りし、読み手にテーマをしっかり届け、尚且つ、エンターテイメントとしても読ませるものに仕上げる。

課題は山積していますが、やるからには勝つ!!

 

特別、作家になりたいということでもないのですが、せっかくなら良いものを作りたいのです。

ですから、やるからには勝つ!!

 

小説の方も、より良いものを作るためにじっくり充電し、仕事や生活についても、自分の障害を正しく捉え、無理はせずとも懸命に取り組みたい。

 

この気概を持ち、やるからには勝つ!!

しっかり前進したいですね。

 

 

 

理解者はいない

 理解者がいない。

こう考える方は意外と少なくないと思います。

人間、十人十色、百人百色、千人千色、万人万色です。

 

誰一人同じ人間はいないので、皆が自分の理解者はいないと感じているのではないでしょうか。

 

何度もお話ししてきましたが、私には自閉症スペクトラム障害という障害があります。

一種の発達障害で、生まれながらの脳機能障害です。

 

人間は知的生命体なので、脳機能の障害があると社会生活もなかなか大変です。

自閉症スぺクトラム障害、人によって障害が出てくるところ、生活上の不都合などは様々なのですが、私の場合は同じような考えの人にほぼ出会えないところに不都合を感じています。

 

いわば、理解者、賛同者がいないのです。

 

これも以前もお話ししたことですが、自閉症スペクトラム障害があることとは関係がないところで、私のパーソナリティーはかなり特異であることも、精神の専門医に診断されています。

 

精神疾患を治療、入院していた頃、入院先の大学病院の偉い先生に”お墨付き”を頂きました。

精神的な検査の結果、わかったことですが、私に丸く見えているものは、他の方には四角く見えている。

そう診断されました。

 

自閉症スペクトラム障害という脳機能障害があると、世界の見え方が一般の方と違うという方は、私の他にもいるようです。

 

それに加えて、精神の専門医が診断したように、私のパーソナリティーはかなり特異なもので、世界の見え方が大多数の方と全く違っている。

 

脳機能の障害、自閉症スペクトラム障害とパーソナリティーの特異さという「二重苦」ですね。

ヘレン・ケラー並みです。

 

脳機能が人と異なるために、とにかく見える世界が違い、何かを表現しても受け入れられないことが多い。

逆に私も、他者が理解できない。

このようなことは日常です。

 

私は孤独なのでしょうか。

 

そうは思いません。

ただ、何故これが面白いのか?

これがわからず、不条理や理不尽、一般的な視点に対する物足りなさは感じます。

 

その程度しか気付かないんだであるとか、何か深掘りが足りないとは思います。

 

わああああああ!おもしろいいいいいい!!

はっきり言って、馬鹿?

そう思うことも多いです。

 

孤独というよりは理不尽と不条理ですね。

 

私の父もそうでした。

父は、おそらく発達障害でした。

 

今生きていれば80代ですので、正確な診断も受けられず、サポートを得ることもないまま死にましたが、間違いなく発達障害です。

娘としてずっと側で見ていたからわかります。

 

俺の夢はお前の夢。

お前の夢は俺は知らない。

 

独善的で相手の気持ちを読めない人でした。

善良で心優しい人でしたが、相手とコミュニケーションが取れない人でした。

 

私と同じで、理解者はいなかったようです。

母ともうまく意思疎通ができないこともあったくらいですので。

 

その父は、やはり自分に理解者はいないと感じていたようです。

絶望していたと言っても過言ではありません。

 

父は卑屈でした。

自分に理解者はいないから、自分の意見を言うのはやめておこうと考える人でした。

 

意見を言っても誰にも聞いてもらえないし、理解もされない。

だから、自分の意見は言わないように、自分の意見は持たないようにしようという卑屈な人でした。

 

でも、私は違います。

 

インターネットの普及でSNSが登場したことが、父が生きた時代とは大きく違いますが、私はネットがなくても、SNSがなくても、自分の意見を持ち、発信し続けることは止められません。

 

父のように卑屈にはなりたくないからです。

 

父は家族を持つべきではなかったのです。

家族を持ったために働きづめで、そのことも父が自分の意見を言わなくなり、卑屈になっていった原因だと考えています。

 

一人で独身であれば、今の私がそうですが、自分のことだけ、自分で自分の面倒を見ればよいだけなので気楽ですし、余裕が持てます。

寧ろ一人でいることで、卑屈になる余地はありません。

一人でいれば伸び伸びできます。

 

ですから、孤独ではありませんが、前述したようにはっきり言って馬鹿?

そう思うことは少なくありません。

 

この発言自体、一般の方には受け入れられず、私が傲慢で尊大、独善的と思われてしまうでしょうか。

しかし、これが偽らざる本音です。

父のように卑屈になり、言いたいことも言わず死ぬ訳にはいかないのです。

 

自閉症スペクトラム障害のサポートを受けるために通っている病院の主治医からは、この障害があるために誤解されることが多いので、そこには注意するよう言われてもいます。

 

でも、本当に馬鹿は馬鹿です。

それの何が面白いの?の連続ですよ。

 

逆に、私の言っていることがわからないという方は多いでしょうね。

もう織り込み済みの想定済みです。

慣れっこです。

 

私は甘口ではありません。

どうせ理解されないなら、綺麗事を言うだけ無駄ですから、表面上だけ好感度を上げるために、口当たりのいいことを言うなどと無駄なことはしません。

 

しかし、こういう口当たりの悪いことを敢えて聞きたいという方も一定数いますよね。

私の狙いはそこにあります。

 

世の中には嘘と綺麗事と偽善と欺瞞と建前がウヨウヨしています。

胸糞悪いではありませんか。

 

そういう嘘と偽善は、ある意味、健常者の専売特許であり得意技ですよね。

 

こういう話を、私よりはるかにしっかり者の弟にしたところ、世界の全ての人が姉ちゃんのような人間なら、戦争は終わらず世界は破綻すると言われてしまいました。

 

そうですね、嘘と綺麗事と偽善と欺瞞と建前が秩序を保たせています。

ですから、私のような障害者は時には健常者にとっては不都合な、不要な存在なのかも知れません。

 

事実、特に精神障害者が疎んじられ、迫害されていた時代もあったのですから。

 

ですが、今は障害者にも人権が認められ、その障害に応じた生き方が保障される時代です。

 

私には理解者はいないのか。

じっと考えてみました。

 

いないことはないですね。

 

私に共感して下さる方は、何かに困っている方、特に心身に問題を抱えている方です。

今は健常者でも、病気や事故、或いは失業、失脚も入るでしょうか、そこから転落すれば、障害がある者とはどういう者か、実感することがあるでしょう。

 

どこかから転落した方や彷徨う羽目になった方も、私の理解者ですね。

 

人間、本当に困れば、嘘と綺麗事と偽善と欺瞞と建前どころではなくなり、物事の本質が見えてくるというものです。

 

嘘と綺麗事と偽善と欺瞞と建前から脱却し、こちらの世界にいらっしゃいませんか?

 

フィルムとオンライン~Come on!ALFEE!!みたいなもの

昨日はTHE ALFEEについて五度目の投稿をしました。

やはり、いつもより多くの方に見て頂けました。

誠にありがとうございました。

 

今日は少しだけそれに関係することを書きます。

 

次回、2月28日でアル中の皆さまが楽しみにするCome on!ALFEE!!は一旦終了です。

”一旦”ですからね。

今後、Come on!ALFEE!!の第二弾や更なるパワーアップ企画にも大いに期待したいものです。

 

ところで、このCome on!ALFEE!!の企画を見ていて、ふと思い出したことがあります。

 

フィルムコンサートを思い出しました。

若い方には馴染みのない言葉なのでしょうが、昔はオンラインや配信といった技術はありませんでしたし、個個人が携帯電話やスマホ、パソコンを持たない時代に行われていたライブなどを見るスタイルです。

 

フィルムコンサートでは、主にコンサート(昔は、ライブとはあまり言わずコンサートと言うことが多かったような記憶があります)を撮影したものを、映画館などで上映しみんなで見るということが行われていました。

 

今で言う”ライブビューイング”のイメージに近いですね。

 

ライブの様子を撮影し流すのであれば、配信・オンラインでも同じことですが、配信・オンラインは、個個人が自分のスマホやパソコンでインターネットを介して見るものですから、厳密に言えばフィルムコンサートと配信・オンラインとは違います。

 

今はまだリアルなライブには慎重になるべき時なので、しばらくは配信・オンラインが続くのでしょう。

 

リアルなライブに慎重になる理由は、何と言っても人が集まることで発生するリスクがあるからですね。

この点から、昔ながらのフィルムコンサートのような、映画館に人が集まる形態も不安があります。

 

そうなると、やはり各自が家にいながらにして楽しめる配信・オンラインに頼らざるを得なくなります。

 

本当にいい時代になりました。

ライブなどエンターテイメントに限らず、インターネットが普及し個人がそれに繋がるための端末を持ち、多くの情報に触れたり、個人が発信して楽しめる時代になりました。

 

SNSはその最たるものですよね。 

私も主にTwitterで多くの方との交流を楽しんでいます。

 

ところで、配信とは言いませんが、オンラインと言えば大学のオンライン授業です。

感染の問題で、大学で学生が集まり直接授業を受けることは難しくなっています。

 

そこでオンラインでの授業になっているのでしょうが、学生らしい生活が失われています。

 

私はTwitterなどで母校の北海道大学の現役学生、後輩とも交流があるのですが、オンライン授業ばかりでほとんど大学に行けていないという嘆きにも触れます。

 

学生生活は、中学、高校ももちろんそうですが、特に大学は授業を受けるだけが学生生活ではありません。

 

サークル活動をしたり、アルバイトをしたり、友だちと交流したりと、若いうちの四年間ないし数年間は、私も経験しましたが、社会人になってからの何年ぶんか以上に貴重な時期です。

 

その時期を大学にも行けず、学生らしい生活もできず、ただ一方的に流れてくるオンラインでの授業を聞き単位を取るだけでは、何の為に大学に入ったか目標が見えなくなってしまわないか、そう心配しています。

 

大学生活のオンラインは困ります。

これは早急になんとかしてあげたいですね。

 

ライブの配信・オンラインなら離れていても、画面の向こうに仲間の顔が見えて、皆で盛り上げるのだという高揚した気分にもなれますが、貴重な若い時期を友だちとも交流できず、学生らしいリアルな生活ができないのは忌々しきことです。

 

もちろん、ライブもリアルが一番ですが、配信やオンラインだと全員が最前列のセンター、いわゆる”神席”ですよね。

リアルなライブではなかなか取れない”神席”、特等席で感染のリスクを回避し、楽しむことができる。

 

なかなか良いではありませんか。

 

リアルなライブに参加して、大暴れできる日までの間、全員が”神席”に陣取り、画面の向こうの仲間と盛り上がっていきましょう。

 

 

 

 

 

 

THE ALFEE ファミリーヒストリーを考える

さて、これで五度目のTHE ALFEEに関する投稿です。

 

以前、THE ALFEEとは耳目を集めるコンテンツであり、これをテーマにするとアクセスは伸びるが、それはコンテンツがよいからであり、私の実力ではないとお話ししました。

 

注目されるコンテンツを扱えばアクセスは伸びますが、それに頼らず、文章を書く力をつけたい、そう考えているので安易に頼るつもりはないのですが、昨日、テレビを見ていて色々と思うところがあったので、それをテーマにしたいと思います。

 

全宇宙のアル中の同志の皆さま、昨夜のNHKの番組、全員集合で「ファミリーヒストリー」を鑑賞したことと思います。

 

私も見ていました。

当初、リアルタイムでは難しいかなと思っていたので、録画も予約していました。

 

しかし、結局はリアルタイムで見ることができました。

ですが、録画したものを繰り返し見るのは言うまでもありません。

 

Twitterでも多くの方が、様々な発言をされていましたね。

 

次回は御三方揃って、グループとしてのTHE ALFEEの「ファミリーヒストリー」を見たいと思いませんか?

NHKの受信料、三倍ぶん払ってもいいくらいですよ  ( ;∀;)

 

冗談はさておき、番組は非常に興味深く、内容の濃いものでした。

 

THE ALFEEは実家の情報など、プロフィールなどでも家族の話を公表していますが、基本、何から何までこと細かく表に出してはいないですよね。

 

今回は、たかみーこと高見沢俊彦さまの「ファミリーヒストリー」でしたが、初めて知るエピソードも多く、ご先祖様の詳細な話にも触れられていました。

 

戸籍を追えるところまで追ったという印象でしたね。

 

以前から思っていましたが、実はTHE ALFEEのメンバーは、とにかく賢い。

勉強という面だけではなく、人間として賢い。

 

真の知性を感じます。

真に賢いから、人柄も素晴らしいのでしょう。

 

その賢さと知性、人間性は全て歌に投影されています。

 

以前もお話ししましたが、学ばない者、知性に欠ける者、人間的に優れていない者は、芸事で大成できません。

 

THE ALFEEは人間の良いお手本です。

 

ファミリーヒストリー」に登場するご親戚の方、関係者の方、皆様、良い人間のお手本な方々ばかりで、正にTHE ALFEEのルーツを見る思いでした。

 

逆に言えば悪い人間のお手本を知れば、良い人間の条件についてますます深く感じ入ることができるというものです。

 

悪い人間のお手本とは、学ばない、傲慢である、狭量である、利己的であるなど、枚挙に遑がありません。

 

どちらかと言えば、悪い人間のお手本は多く、そのような者どもが跳梁跋扈しています。

そう考えると良い人間のお手本に導かれ、天文学的な確率以上に、更に天文学的な確率の巡り合わせで、志を同じくする私たちは同じ時代の船に乗り合わせたのでしょう。

 

皆にそれぞれのルーツがあります。

そのルーツのどれが欠けても、今日はなかった。

 

昨日の「ファミリーヒストリー」を見て、しみじみと感じました。

過去から現在を辿る内容になっていましたが、これを踏まえて未来を作りたいものです。

 

今すぐにはリアルなライブができなくても、公共放送の真面目な企画で取り上げられるのであれば、THE ALFEEはまだまだ大丈夫です。

 

さあ、Cone on!ALFEE!!の方も、いつPart2があるのでしょう。

楽しみですね。

 

 

次に海外に行けるのはいつだろう

 私は海外旅行が大好きです。

正確に言うと、大好きでした、でしょうか。

 

ここ何年かは一年に三、四回、外国旅行に出かけていました。

 

ツアーではなく全くの個人旅行で、外国の航空会社のホームページから航空券を予約したり、ホテルも予約サイトを参考にしつつ個人的に予約する。

どこに行くにも一人なので、空港からホテルまでは運転サービスなどを利用して、出発前にタクシーを予約をしておく。

 

全ての手続きを自力で英語でやらなければならないのですが、寧ろ、この予約の作業が楽しい。

予約の時から旅は始まっています。

 

しかし、去年、2020年1月にエジプトに行ったのを最後に、海外には行けていません。

感染の問題もあり、今はまだ気軽に海外旅行を楽しめない状況ですよね。

 

全地球的に感染の問題が収まり、安心して旅に出かけられるのはいつのことでしょう。

 

それ以外にも、私を取り巻く状況は激変しました。

 

一番大きいのは、自閉症スペクトラム障害が診断されたことです。

50代になって初めて診断されたこともあり、今後の人生をしっかり考えなくてはならなくなりました。

 

最も考えなければならないことは、仕事のことです。

障害者枠で就労継続支援A型の職場で働くか、福祉の相談窓口などで適性検査や職業訓練を受けて、一般企業で働くか。

 

まずはこの二つの選択肢に大別されます。

 

就労継続支援A型の職場であれば、そう時間はかからず働く場は見つかりそうですが、果たしてそれがベストな選択肢か。

もう少し時間をかけて考えてみたいところでもあります。

 

或いは、福祉の相談窓口で適性検査や職業訓練を受けて、働く場を探すか。

これは時間がかかりそうです。

この選択をすると、仕事がきちんと見つかるまでは生活保護の申請も検討しますね。

 

以前、精神疾患を治療中、生活保護を頂いて暮らしていたので、どんな制度かは理解しています。

 

さて、就労継続支援A型で働くにせよ、職業訓練を受けて一般企業で働くにせよ、今後いつ海外旅行に行けるか見通しが立たなくなってしまいました。

 

就労継続支援A型であれば、賃金はそう多くはないので、旅行資金を貯めるのも苦労しそうです。

 

職業訓練を受けて一般企業で働く方を選べば、職業訓練中は海外に行く余裕はありません。

 

今度はいつ海外を旅することができるでしょう。

 

思えば、今まで年に三、四回、海外へ旅に出るために、私は無理をしてきました。

自閉症スペクトラム障害も正しく診断されていませんでしたから、そもそも向いていない仕事、障害を抱えては無理のある環境で仕事をしてきました。

 

今後はこういう環境に自身を置くつもりはないので、時間に融通が利き、比較的お金も稼げる仕事には就かないでしょうから、正に時は金なりで、時間とお金の条件が揃い、海外にふらりと行ける環境からは離れることになります。

 

海外に一人でふらりと出かけて行くことが好きなのですが、

ここからは離れざるを得ないでしょう。

 

これからは、正しく知ることができた己に、無理のない生き方をすることになります。

 

障害がある者として自分に正直に生きます。

 

その上で、外国に行く余裕ができればいいですね。

 

ただ、ずっと英語を使わないでいると忘れてしまいそうです。

一人でどこに行っても困らない程度には英語を使えるのですが、外国に行くことから遠ざかると忘れてしまいそうなので、何か勉強を続けようかとも考えます。

 

英語は大学が文学部だったので、日常的に文献や資料を読むために使っていましたし、聞く、話す英語なら外国人の先生に教わりました。

若い頃に身につけたことはなかなか忘れないものですが、それでも使う機会から遠ざかれば錆びていきます。

 

英語、何かいい方法を見つけて勉強したいですね。

 

次に海外に行けるのはいつでしょう。

 

見通しが立たなくなりましたが、まだまだ人生何があるかわかりません。

意外と今まで以上に、楽しんで行けるようにもなるかも知れません。

 

次に海外に行けるのはいつでしょう。

 

それも楽しみにしながら、障害がある者として無理せず生きていきます。

 

論文と小説

昨日、私が大学で学んだインド哲学の話を少ししたので、今日はややその続きになることを書きます。

 

タイトルの「論文と小説」

これは、固い文章と柔らかい文章を大別するものです。

小説は、作品や作者の個性で固いものもありますが、フィクションとイマジネーションの世界であり、論文よりはずっと柔らかいです。

 

論文といえば、何と言っても大学の卒業論文です。

昨日のお話の通り、私は大学でインド哲学を学んでいました。

私は北海道大学の文学部の卒業生です。

 

専攻はインド哲学卒業論文のテーマは正確には忘れてしまいましたが「大乗仏教における生命観」

そういったテーマだったと思います。

 

私の記憶では、私が卒業論文を書いた頃は、400字詰めの原稿用紙に最低100枚がノルマだったように思えます。

 

私も原稿用紙に100枚以上書きました。

もう30年以上前のことなので、当時はパソコンで文章を作る学生はほぼいませんでした。

できる人でワープロで作成。

そういう時代でしたね。

 

私は全て手書きにしました。

Twitterで交流する北海道大学の現役学生、後輩に聞かれました。

全て手書きだと文章を訂正する時、大変ではないかと質問されたのですが、どうでしょうか、あまり大変だとは思わなかったですね。

 

鉛筆でレポート用紙に下書きを書き、それを組み立てて原稿用紙にペンで清書するやり方で書きましたから、大量の下書きができたという記憶はあります。

 

因みに、私が大学に入学した頃、入学祝に万年筆をもらうというのも主流ではありました。

 

論文の書き方はいろいろあると思いますが、文学部、特にインド哲学に関する論文は、理系の学問のように実験データなどを集めて書くものではありません。

 

文学部とは言葉を使って真理を追究する場です。

 

文献や資料を読み、そこから導き出される自分なりの考察を交えて、文章を作りました。

ですから、とにかく多くの資料を集め、読むことが作業の中心でもありました。

 

文献や資料から読み取れること、自分が考察する根拠、そこから到達する結論。

理路整然と組み立てるのが論文のまとめ方です。

 

ですから、逆に論文を読む時は、書き手の考え、その根拠、最終的な結論を読み取る作業になります。

 

書くにしろ、読むにしろ、書かれている事実を読み取り、あるいは根拠を示してまとめる。

これが論文に求められていたことでした。

 

私はこういう固い文章の方が得意です。

 

入学試験の時から、問題文として大きく分けて論文・論説と小説・文芸作品は必ず読めるよう要求されていました。

入学試験では、大きく分けて論説、文芸作品、古文、漢文。

確か、論説文で一つか二つ、文芸作品で一つか二つ、

古文で一つ、漢文で一つ、合計五つくらい問題があったように思います。

 

実は、いわゆる現代文よりも、古文や漢文が得意で好きな私は、一番苦戦したのは文芸作品の問題でした。

 

文芸作品の場合は、作者との相性があります。

好きな時に好きなように読めるのであれば、自分が興味があるものを選べばよいですが、入学試験だとそうも言っていられません。

 

或いは、解釈についても文芸作品の場合は、読み手の感性に任されるものですが、入学試験では求められる解答を予測しつつ、時には自分の解釈を殺してでも解答に近付ける読み方が要求されます。

 

このような理由で、私は実は文芸作品が苦手でした。

同じ物語なら、私が惹かれた古典文学や漢文の世界観の方が読むのが楽しく、楽しいので楽でしたね。

 

こういう私ですから、卒業論文をまとめる作業は大変ではありますが、楽しめました。

テーマを決め、資料を集め、読み進め、考察し、結論を導き出す。

 

理路整然と考えるのが好きな私には、楽しい作業でした。

 

高校生の途中まで医学部を目指していた私は、どちらかと言うと理系的な発想が得意なのかも知れません。

 

哲学は文学よりは固いです。

文献や資料の中に隠される真実を読み取り、AであるからBであり、よってCであるというように、論理を組み立てて考えることが要求されます。

 

これは私の物の考え方に合っていたと言えます。

 

このように、論理を組み立てる方が得意な私が、なんと小説に挑戦しています。

小説は本当は苦手なのですが、挑戦しています。

苦手に挑戦することが自分の新しい面を作り、向上させると思うからです。

 

こちらはサブのブログです。

メインの方は「小説スカイゾーン」のタイトルで、その名の通り小説形式で書いています。

 

ですが、小説は読むのも難しいですが、書くのはもっと難しい。

 

物語の根本的なテーマを決め、コンセプトを練り上げ、キャラクターに命を吹き込み、話の展開を組み立てる。

そして、何と言ってもエンターテイメントとしての面白みを、前面に出さなければならない。

 

常に悩むのですが、私の文章は固く面白みに欠ける。

小説のつもりで書いても、いつの間にか状況の説明に終始し、流れるような情景描写ができないまま書き進めてしまう。

 

とにかく文章が固い。

これが一番の悩みです。

 

そしてもう一つの悩みは、テーマの設定も固い。

今取り組んでいる小説は、昨日もお話しした「生老病死」をテーマにしていますが、あまり一般的なテーマではなく重いです。

 

私が描こうとするテーマは固く、読んでもらえないようなものか。

友人にも相談したのですが、固くて重いものを読みたい読者もいるのだろうから、ブレることなく進めばよいとアドバイスをもらえました。

 

そうです。

何事もブレてはならないのです。

 

ブレるなと言われれば、それは寧ろ私の得意とすることです。

ブレないことは、理論を積み上げ、一つの論文を作る作業に通じるものがあります。

 

読むのも書くのも、どちらかと言うと苦手な文芸、小説ですが、やるからには上達を目指して進みたいです。

何事もやるからには、より良きものを目指して向上したいのです。

 

それは論文だろうが小説だろうが同じこと。

目指すところは同じなのです。

 

やるからには、より良きものを目指す向上心を持ち、進み続ける。

 

もう50代なのですが、大学生の頃と変わらず進み続けたいものです。

 

生老病死

今日は「生老病死」についてのお話をします。

 

これは、仏教の教えですね。

生老病死」と書いて「しょうろうびょうし」と読みます。

 

人間が逃れることができない四つの苦、生まれる苦、年老いる苦、病気になる苦、最後に死ぬ苦のことを「生老病死」といいます。

「苦」とは、必ずしも苦しみのことではなく、仏教においては「自分の思うようにならないこと」を「苦」と呼んでいます。

 

私は大学でインド哲学を学び、この教えに最も感銘を受けました。

インド哲学では、古代インドの哲学の他にも仏教の教えについても学びます。

 

私なりの解釈ですが、「生老病死」をこう考えてもいます。

 

生まれてから死ぬまでの間には、年老いることと病気になることしかない。

大学でインド哲学を学んでいた頃からそう考えていました。

 

人生は苦しいことの方が多いものです。

ですから、生まれてから死ぬまでの間には、年老いることと病気になることしかない。

そう考えても、私なりの解釈は間違いではないと考えています。

 

実際、年を取らない人はいませんし、病気にならない人はいません。

当然、死ななない人はいません。

 

究極、生まれてこれない人はいても、生まれて年老いない、病気にならない、死なない。

これはあり得ません。

 

ですから、人生には年老いることと病気になることしか存在しないと考えても、そう問題ではないと考えます。

 

では、この苦、特に生まれてきた者が逃れられない苦、年老いる苦と病気にならない苦、そして死ぬ苦を取り除けば、後に何が残るのでしょうか。

 

年を取らず病気にもならなければ、人生は最強、バラ色でしょうか?

その上、死ななくなればハッピーでしょうか?

 

古今東西、人間は不老不死を求めてきました。

不老不死とはいかないまでも、病気の克服や老化を遅らせることに、人間は未だに懸命に取り組んでいます。

文字通り、懸命に命を懸けて取り組んでいます。

 

人間は「生老病死」の老と病と死を取り除かれれば、本当に幸せでしょうか?

老いと病を取り除いたところで、その後にはまた更なる問題が生じるような気がします。

 

例えば、老いと病に挑戦し寿命は飛躍的に伸びましたが、今度は高齢の方が増え、社会保障の問題が出てきてしまいました。

 

この調子で、死にも挑戦し、不老不死を手に入れてしまったらどうなるのでしょう?

やめた方がいいと思います。

 

人間は必ず老いて、病み、死ぬからこそ人間です。

老いと病と死は、仏教の教えにもある通り、神や仏の領域であり、人間がそこに踏み込むべきではありません。

 

さて、私なりの「生老病死」の解釈についてですが、人によっては救いのない考え方だと思われるかも知れませんね。

 

せっかく生まれても、死ぬまでの間に年老いることと病気になることしかないとしたら、何が楽しくて生きるのか。

そういう疑問が生じるのもわかる気はします。

 

しかし、生まれてから死ぬまでの間に、年老いることと病気になることしかない存在として人間が作られたのであるからこそ、ほんの僅かな喜びがありがたく思えるのでしょう。

ありがたいとは、有難いと書きます。

ありがたいことは、それが存在することが稀有であるから、

ありがたいのです。

 

生まれてから死ぬまでの間に、年老いることと病気になることしかないから、人間は滅多にない喜び事に幸せを感じるのです。

 

では、前述したように、年を取らず病気にもならなくなれば、人間は幸せになれるのでしょうか?

苦しい要素が全て取り除かれれば、人間は幸せでしょうか?

 

それはどうでしょう。

私は、苦しいことだらけだから幸せが見えてくるのだと考えています。

一切の苦しみがなくなってしまったら、喜びも消えるのだと思います。

 

以前、この世界は相反するものから成り立っていると書きました。

男と女から生命が誕生し、プラスからマイナスに電気が流れるように、世界は相反するものが並び立ってこそ存在します。

 

幸せは幸せのみから成り立つのではなく、苦しみという対極にあるものが存在するから、幸せとして存在することができるのでしょう。

 

人間は年老いず、病むことなく、死ななくなれば幸せか。

このことを問うというテーマで、こちらのサブのブログ「とまとの呟き」とは別に書いているメインのブログ「小説スカイゾーン」というものを展開しています。

 

人間を年老いる苦、病む苦、死ぬ苦から解放する存在が登場し、果たしてそれらの苦から解放された人間は幸せかを問うています。

 

人間を苦から解放する存在は、自らを神と称して登場しますが、そんなに旨い話が本当にあるものか?

本当にあったとしたら、そんな甘言を囁く者は神ではなく悪魔ではないか?

 

これをテーマとして、メインのブログはその名の通り小説形式で公開しています。

 

私が大学生の頃から追いかけているテーマ「生老病死」。

人間が避けられないものであるからこそ、一見、苦しく辛いことのようですが、実はこれが一番に幸せを生む条件といえるのです。