旅は道連れ世は情け

今日は旅のお話をします。

私は旅が大好きです。

今は感染爆発の問題もあり、なかなか行くことができません。

 

一番最近、旅をしたのは去年の9月です。

函館と京都に行ってきました。

 

函館は、死んだ父の故郷です。

でも、私は父に函館に連れて行ってもらったことが一度もありませんでした。

ですから、どんなところか行ってみたいとずっと思っていたのです。

 

父が私を函館に連れて行ってくれなかった理由は、わかっています。

父は小学生の頃に、自分の父親を病気で亡くしました。

 

父は8人兄弟の7番目の子で、自分の父親を亡くすと年が離れた兄弟に育てられたそうです。

中学生までは函館にいたそうですが、その後は兄弟を頼り、

北海道内のあちらこちらの都市を移り住んだそうです。

 

その時点で、函館にあった父の実家は消滅したようです。

父の母親、私の祖母も、子どもたちの家を順に回って一緒に暮らしたり、かなり高齢になってからは病院で過ごしていました。

 

そういう事情で、私は函館に行ったことがなかったので、どんなところかこの目で見ておこうと思いました。

去年の9月から仕事も休業しましたし、感染の問題も一旦落ち着いたかのようだったので、思い切って函館に行くことにしました。

 

札幌から長距離バスで5時間ほど。

到着した函館は、札幌よりはのんびりした感じで魅力的でした。

 

朝市に行ったり、五稜郭タワーに昇ったりと定番コースを一人でゆっくり回りました。

一人で何かをすることが圧倒的に好きな私は、やはり函館も一人で回りました。

 

一人で何かをするのが好きなので、旅はいつもツアーではなく自由な個人旅行ですね。

海外に行く時もそうです。

外国の航空会社やホテルは、主にホームページから予約します。

旅行サイトも参考にしますし、費用と自由度の高さが決め手になりますね。

 

函館も気ままな自由旅行を存分に楽しめました。

朝市や五稜郭タワーといった、定番の場所以外にも絶対に訪れたい場所がありました。

 

父の実家があった松風町です。

父は、松風小学校という学校に通っていたといつも言っていました。

残念ながら、松風小学校は他の小学校と統合され廃校になってしまいました。

 

松風小学校が統合で廃校になる時、卒業生の父のところに記念品が送られてきました。

父がどうやって札幌市内にある今の私の実家を、卒業した松風小学校に登録していたのかはわかりませんが、廃校の時に記念品が送られてきました。

 

函館の松風町、ゆっくり歩きましたが、函館駅からも近く街の中心部なのですね。

一般のお宅よりも、お店などが多かった印象です。

 

父は小学生の頃、どの道をどう歩いて松風小学校に通っていたのか。

毎日、何をして過ごしていたのか。

近所に友だちはいたのか。

友だちと何をして遊んでいたのか。

 

色々なことを考えながら、松風町をゆっくり歩きました。

 

父は小学生の頃から勉強が好きで、あだ名は「博士」だったとよく言っていました。

私のイメージが、小学生だった父にそのまま当てはまるのなら、父は外で同年代の子どもと遊ぶより、家で一人で本を読んで過ごしていたのではないかと想像します。

 

私の自閉症スペクトラム障害は、おそらく発達障害を抱えていたであろう父からの遺伝だと思うのですが、発達障害がある方の中にはかなり優秀な方も少なくない。

父も読書好きで物知りで頭はかなり良かったのですが、私と同じで一般的な仕事が苦手な人でした。

 

昔の人間ですから、正確に診断されることもなく、精神的なサポートを受けることもなく、癌で死んでしまった父の苦労はどれほどのものだったか、胸が痛みます。

 

こうして、函館では父が幼い頃を過ごした松風町を歩き、私のルーツに触れることができました。

父が小学生の頃に病死した、会えなかった私の祖父は病気になる前、元気で若かった頃、やはり松風町、函館の街のどこかを歩いていたのか、そんなことも考えました。

 

函館には三泊四日の予定で行き、札幌に帰る予定だったのですが、函館から京都に行こうと思い立ち、そのまま向かうことにしました。

 

京都に向かおうと思ったのは、清水寺にお礼参りに行きたかったからです。

 

私は、子宮頸がんで手術を受け、子宮を全摘しているのですが、幸い早期発見で手術後の何年間かは経過は順調でした。

しかし、ある年、膣断端部高度異形成と診断され、以来、3ヶ月に一度程度は外来で検査を受け、一年に一度は入院して検査を受けています。

 

気が抜けない状況なので、一昨年、京都に旅行した時、清水寺でお守りを買いました。

それから一年ほどが経った去年の9月、膣断端部高度異形成のままではあるけれども、癌の再発には繋がっていないので、それについて清水寺の仏様にお礼を申し上げておきたかったのです。

 

京都には函館空港から飛行機で向かいました。

函館空港を利用するのは初めてでしたし、京都に行くために降り立った伊丹空港も初めて行きましたね。

 

京都に到着し、清水寺をお参りした日はどしゃ降りでした。

しかし、日程を変更することなくお参りしました。

どしゃ降りという困難の時にあえて決行することで、私の決意を仏様に見て頂きたかったのです。

 

清水寺では、一年間私を守って下さったお守りに感謝し、お返ししてきました。

お返ししたお守りの色違いの同じお守りを買い、また一年間願いをかけたいと考えています。

 

でも、オッチョコチョイの私は、あることを間違ってしまいました。

 

上記のように、癌が再発したりしないように清水寺でお守りを買ったのですが、それとは別に一昨年、京都に行った際に癌封じの蝋燭を灯し、納めてきました。

その癌封じの蝋燭をお納めした場所は、金閣寺だったのですが、私は清水寺だと勘違いしていて、去年の9月に京都に行った時に、同じ清水寺の中で癌封じの蝋燭の場所を探し回っていたのです。

 

でも、後から考えたら、それは清水寺ではなく金閣寺だった。

失敗しましたね。

私は、こんな風にかなりのオッチョコチョイです。

 

今度、京都に行ったら金閣寺にも行きたいですね。

清水寺のお守りは、またお礼をするために納めてきたいですから、また京都には行かなければなりません。

 

今後ずっと京都に行き続けてもいいですね。

以前もお話ししたように、北海道大学の文学部でインド哲学を学び、仏教の教えを得意分野としていた私は、京都に多くあるお寺にはとても興味があります。

 

国内も、一番遠くは沖縄に行きましたし、関西や四国、九州も行きましたね。

沖縄に行った時は、とにかくビックリしました。

4月に行ったのですが、皆さん、海水浴してましたよ。

4月なら、北海道は場所によってはまだまだ雪が残っています。

何年かに一度は雪が降ることもありますから、沖縄に行って4月に海水浴をしている様子を見た時は、驚きましたね。

 

日本国内を旅するのもいいですが、海外旅行も好きですね。

前述したように、海外に行く時もいつも一人です。

予約も代理店などは通さず、自分で個人的に取ります。

 

どこに行く時もそうなのですが、必ずノートパソコンを持参します。

個人的に一人で行くので、ノートパソコンが入るセーフティーボックスが部屋にあるかどうかが、非常に大切なポイントになります。

 

ホテルの案内のサイトに、明確にセーフティーボックスがあると謳われていればよいのですが、それが明示されていない場合は個別にホテルに問い合わせなければなりません。

 

去年の1月にエジプトに行った時も、ノートパソコンが入るセーフティーボックスがあるか、不明だったのでホテルに個別に問い合わせました。

 

そうしたら、丁寧に写真付きのメールが返ってきました。

しかも、その写真がホテルのスタッフがスマホで撮ったようなものだったのです。

セーフティーボックスの大きさも明記されていて、ノートパソコンを安全に入れておけることがわかり、そのホテルに決めましたね。

スマホで撮ったセーフティーボックスの写真、微笑ましかったです。

 

今はいつ、また安全に海外に行けるようになるか見通しが立たない状況です。

しかも、私は自閉症スペクトラム障害と診断され、今後、どんな職場でどんな仕事に就けるかが白紙になってしまいました。

就ける仕事によっては、海外旅行はもちろん、国内旅行からも遠ざかってしまうかも知れません。

 

定期的に旅に出たいので、シフト制の仕事をしていた時期もありました。

一週間ごとにシフトを出せる仕事に就き、シフトの合間に旅に出る。

私にとっては理想的な環境でしたが、環境は整っていても私は仕事ができず、辛いと感じることの方が多かった。

 

仕事がうまくできない理由は、自閉症スペクトラム障害があるからだとわかったので、できれば旅に出られる環境と私の障害・個性とが両立できる仕事が見つかればよいと考えています。

 

仕事を選ぶ時は、旅に出やすい環境があった方がいい。

そう考えた私は、在宅で文章を作る仕事をしていたこともありました。

私の夢は、旅をしながら仕事をすること。

 

そう考えて、在宅で、或いはパソコン一つあれば、どこでも仕事ができることを志したのですが、それは所謂webライティングの仕事でした。

以前にもお話ししましたが、webライティングとはマニュアルに縛られ、検索上位で出てくるような文章を作る仕事です。

SEOを意識し、キーワードを選定しといった作業は、私には苦痛でしかない。

 

自閉症スペクトラム障害を抱え、能力の偏りが著しい私が最も苦手とすることは、マニュアルから逸脱しないこと。

ゼロから起こすのは大得意ですが、マニュアル通りに物事を進めるのは大の苦手であり、苦痛でしかない。

webライティングは、同じ文章を作る仕事でも私にとっては、正に鬼門でした。

 

最後に、旅と言えば思い出すのが、幼い頃に出会ったおじさんのことです。

 

父は函館の出身ですが、母は北海道の日高地方、昆布の名産地の出身です。

私が幼い頃は、夏になると昆布漁を手伝いがてら、母の実家に行っていました。

 

父が運転する車で行く時もあったのですが、何か仕事の都合だったのでしょうか、母、私、弟の三人で行くこともあり、運転免許を持たない母とは鉄道を利用して行っていました。

 

鵡川と様似の間が廃止になる予定の日高本線を利用して、母の実家があった小さな漁師町に向かいました。

当時、私たちの一家は北海道の苫小牧市に住んでいたので、苫小牧から日高にあった小さな漁師町に、鉄道で向かいました。

 

今でも覚えているのですが、途中の日高門別の駅で降りて行ったおじさん。

列車の中で向かいの席に座り、母や私、弟と話が弾み、途中の日高門別駅で降りたおじさんは、私たちが窓から手を振ると何度も振り返って手を振ってくれていました。

 

あのおじさんは、あれからどうしたのでしょう。

家族が待つ家に帰り、旅の話をしたのでしょうか。

それから、おじさんはどうしていたのでしょう。

 

私の記憶では50代くらいの方だったと思います。

おそらく今はもう、人生という旅を終えているのでしょうか。

 

長い人生の中で、ほんのひと時ご一緒しただけの方ですが、今も私の心の中に振り返って手を振ってくれていた姿が残っています。

旅の数だけ思い出は増えていきます。