健康も健全さも、めでたいことではない~精神の不健康は本来の姿

最近、主に活動しているTwitterで、ますます同じ境遇の方々と繋がることができるようになりました。

私はネット上ではブログ以外は、Twitterで活動しているのですが、自分の自閉症スペクトラム障害を明らかにすることで、同じ境遇の方からのフォローが増え、交流が盛んになってきて嬉しいです。

 

心身ともにご苦労されてる方って、本当に多いですよね。

私と繋がり、交流して下さる方は、精神上の問題を抱えている方々が多いです。

精神疾患を治療中だったり、私と同じような自閉症スペクトラム障害発達障害を抱えていたり。

 

でも、疾患に罹っていたり、障害を抱えている方が人間としての本来の姿であり、本質が見える境遇なのではないでしょうか。

 

私は大学でインド哲学という学問を学んでいました。

インド哲学の領域は多岐にわたりますが、私が興味深く追いかけていたのは仏教の教えでした。

 

その中でも最も感銘を受けたのは、「生老病死」の教えです。

 

このブログでも何度かお話ししているように、仏教における「生老病死」とは、人間が逃れられない四つの「苦」のことです。

仏教における「苦」とは、自分の思うようにならないことという意味です。

 

人間は、生まれる苦、年老いる苦、病気になる苦、最後に死ぬ苦、この四つの苦からは逃れられません。

 

事実、年老いることのない人間も、病気に罹らない人間もいませんし、若々しく年齢を重ね、健やかな生涯を過ごしてきても、死なない人間はいません。

 

生老病死」から逃れられる人間はいないのです。

人間は皆、年を取り、病気に罹る存在ですから、精神の問題、精神疾患に罹ったり、障害を負うことは特別な不幸なのではなく、当たり前のこととも考えられるのです。

 

私がネット上で繋がる方々は、この本質に気付き、感覚が研ぎ澄まされている方が多いです。

 

人間、何不自由ない環境にいる方が感覚が鈍り、本質を忘れ、果てしない物欲や権威に縋る愚かさが露呈するのではないでしょうか。

 

ですから、健やかで健全だと思われている状態は、ちっともありがたいことではないし、めでたいことでもない。

寧ろ、本質から遠ざかり、大事なものを見失っている可能性があります。

 

人間は恵まれすぎると思考が安易になり、傲慢にもなる。

自分は立派な人間で、お金があれば何でもできると錯覚する。

 

これは正しい姿ではありません。

恵まれた環境に感謝し、謙虚な人間がいることも否定しませんが、かなりの努力を要するはずです。

 

流れるまま、自然の姿を受け入れる時、それは病気であったり障害を抱えていたりする時と重なるのではないでしょうか。

 

健康と健全さの陰に隠れ、本質が見えなくなるようでは、その健康と健全さはちっともめでたいことではないのです。