DOGを逆さにするとGOD

犬と人間は友だちであり、家族です。

 

犬派か猫派かと言われれば、私は断然、犬派です。

 

私はほとんど記憶していませんが、私が生まれた頃に住んでいた家には既に犬がいたようです。

 

私が1歳頃に、その家の前で若かった父と撮った写真に、小さく映り込んでいる犬の姿があります。

 

父も犬が大好きでしたから、あの犬は父のお気に入りだったことでしょう。

 

父はその犬のことを「キュースケ」と呼んでいました。

父は、歴代飼った犬、どの犬にも「キュースケ」と名付けていました。

父によれば「キュースケ」の「キュー」は、坂本九さんから頂いていたものだったようです。

 

犬は英語では「DOG」これを逆にすると「GOD」=「神」ですね

 

犬は、かなり大昔から人間と共に暮らしてきました。

番犬として、家畜を見守る働き手として、家族として、パートナーとして。

 

犬と人間は大昔から共に生き、ある時は人間を守る神だった。

そこで、英語では「犬」のことを「GOD」を逆にした「DOG」と呼ぶようになったのかも知れません。

 

前述したように、私が生まれる前から父と母は犬と暮らしていたようですから、私はその犬に見守られ成長したのでしょう。

 

でも、その犬との別れは悲しいものでした。

 

私が3歳くらいの頃だったでしょうか、私たち一家は札幌から北海道の苫小牧市という街に引っ越すことになりました。

 

前にもお話ししたように、おそらく発達障害を抱えていたであろう父は、仕事が長続きしない人で、苫小牧市に仕事を求めて私たち一家は引っ越したのです。

 

引っ越し先の家では、犬が飼えなかったのでしょう。

それまで飼っていた犬は、男性3、4人の手で車に押し込められ、どこかに連れて行かれてしまいました。

 

その犬が、男性3,4人に車に押し込められる時に悲しそうに鳴いていたのは、まだ3歳くらいだった私も覚えています。

 

その引っ越しの日、私も何故か泣いていたんですよね。

何故、泣いていたかは覚えていませんが、犬との別れを儚んでいたのでしょうか。

引っ越し屋さんが荷物を運びながら、どうして泣いているの?と私に声をかけてくれていたのですが、私が泣き止むことはありませんでした。

犬の話とはあまり関係ないですが、私に声をかけてくれていた若かった引っ越し屋さんのお兄さんたちも、もうご高齢になったことでしょう。

 

苫小牧市に引っ越し、二軒目に住んだ家では犬を飼いました。

やはり父が犬好きで、ペットショップなどはほとんどない時代だったので、母が保健所に問い合わせて、子犬を譲って頂いていたように朧気に記憶しています。

 

苫小牧市には数年しか住んでいなかったのですが、家は三軒変わりました。

 

一軒目の家は、小さな一戸建てのような家でしたが、どちらかと言うと長屋ですね。

長屋ですから、犬は飼えなかったのでしょう。

 

二軒目の家は、父が当時働いていた職場からお借りしていたものでした。

一階部分が住居で、二階部分はその職場で使う物を置いておく倉庫になっていましたが、犬は飼える環境でした。

そこに2年ほど住んだでしょうか、その後は公営住宅、いわゆる団地に入居したので犬を手放すことになりました。

 

詳しいいきさつは忘れてしまったのですが、苫小牧市で住んだ二軒目の家では、短い期間で一匹ずつ、何匹か犬を飼っていたような記憶があります。

 

苫小牧市で二軒目に住んでいた家で、それぞれ飼っていた犬たちとは、2年ほどしか過ごすことができませんでした。

その犬たちがその後どうなったのかは、私は子どもだったので忘れてしまいましたが、2年ほどしか一緒にいないで手放すことは、現代では動物虐待になりかねない、とんでもないことです。

 

父が癌に罹り、最後に入院して治療の手立てがなくなり、万策尽きた時、私は父にこう言ったことがありました。

 

お父さんがもう治らないのは、あの時、自分の都合で犬を手放したりしたからだと。

 

札幌から苫小牧市に引っ越す時、苫小牧市で最後に住んだ団地に引っ越す時、父の意向で飼った犬を人間の都合で手放してしまった。

父が治療の手段を閉ざされ、死ぬしかなくなったのは、犬を粗末に扱った天罰だと私は父に言いました。

 

父は、かなりショックを受けたようです。

無口で自分の感情を表面に出さない人だったので、私に面と向かって反応はしませんでしたが、母の前では、犬に申し訳ないことをしたと悔いて反省していたようです。

母からそう聞きました。

 

父はそれからすぐに亡くなりましたが、犬のことは気にしていたことでしょう。

父に最後の最後に後悔させた犬の存在。

父は善良で穏やかな人でしたから、やはり犬を粗末に扱ってしまったことを、私に言われなくても悔いていたのではないでしょうか。

 

犬はこのように、人の心の中の深いところに入り込む神ですね。

父は、犬と暮らしていた頃は名前を「キュースケ」と呼んで可愛がっていましたから、本当は最後まで面倒を見たかったのではないかとも思います。

 

父と私と犬の物語はここまでです。

 

次は、元夫と私と犬の物語です。

 

私と元夫は、結婚してすぐに札幌市内に一戸建てを建てて住み始めました。

元夫と約束したのです。

家が完成したら、犬を飼おうと。

 

そこで迎えたのはゴールデンレトリバーの雄の子でした。

「ラッキー」と名付け、毎日にぎやかに過ごしました。

 

ラッキー以外に犬を飼う予定はなかったのですが、結果的に三匹の犬と暮らすことになりました。

 

私と元夫は、札幌にある山沿いのエリアに家を建てたのですが、札幌市内ながら自然が豊かで伸び伸びとした地域でした。

だからなのか、山に通じる林の中に犬を捨てていく不届き者もいました。

 

最初に迎えた子・ラッキーの後に迎えた子たちは、シーズーの雌とミニチュアダックスフンドの雌の子です。

 

この二匹の雌の子たちは、どちらも山に繋がる林に捨てられていました。

”長男”のラッキーが、朝、散歩させていた時に、こっちだこっちだと引っ張る方に行ってみると、シーズーの子が捨てられていました。

 

毛が伸び放題で、顔もよく見えなくなっていて、かなり衰弱していたので迷わず保護し、かかりつけの獣医さんに連れて行き診察を受けさせて、我が家で飼うことに決めました。

シーズーの子は衰弱していて、一週間の入院後、我が家の一員になりました。

 

その後、同じように保護したミニチュアダックスフンドの子も加え、わんこ三兄弟が揃っていた頃は、かなり賑やかでしたね。

 

捨てられていた子たちを保護して、獣医さんに連れて行き飼うことを決めると、診察してくれた獣医さんも安心して喜んでくれました。

この子たちは、助けてもらった恩を忘れることはないだろうと言って下さいました。

 

あれから、三匹の犬たちは順に死んで、私と元夫は離婚して別れ、みんな離れ離れになってしまいましたが、三匹の犬たちと過ごした日々は私の宝です。

 

三匹の犬たちは私の宝です。

 

シーズーの子が死んだ時、私と元夫は既に離婚し別々に暮らしていたのですが、シーズーの子が死んだと、元夫が連絡をくれました。

私は、その頃、精神疾患を治療しながら一人暮らしをしていたのですが、元夫に頼んで、死んだシーズーの子を連れてきてもらいました。

 

私がその子のお葬式を出しました。

ペット用の斎場に連れて行き、火葬して頂きその子の骨を拾ってあげました。

 

お坊様にお経をあげて頂く時に、お坊様がこう仰っていました。

別れた元夫と私のことを、死んだシーズーの子が再び引き合わせようと導いてくれたのだと。

 

私もそう考えました。

元夫と復縁することはなかったのですが、もう一度会えたのは死んだシーズーの子の導きだったのでしょう。

 

もう一つ、犬にまつわる不思議な話があります。

 

”長男犬”のラッキーが死んで間もない頃、同じゴールデンレトリバーの雄の子との出会いがあったのです。

 

その子の名前は「ジャック」。

ジャックの元の飼い主さんが、回復不可能な病状となり、泣く泣く手放さなければならなくなったということでした。

 

私たち夫婦が住んでいた家のお隣のご夫婦から頂いたお話だったのですが、そのご夫婦のお宅には、既にゴールデンレトリバーの雄の子がいて、大型犬の雄同士を同じ家の中で飼う訳にはいかず、私たち夫婦が飼えないかと相談されたのです。

 

当時、私たち夫婦のところに残っていたのは、シーズーの雌の子とミニチュアダックスフンドの雌の子。

小型犬の雌の子となら、ジャックは一緒に暮らせます。

私たち夫婦は、ジャックを引き取ることにしました。

 

それまでいたラッキーを亡くしたばかりだったので、ジャックはラッキーの生まれ変わりだったのでしょう。

ジャックこそ「神」。

 

私と元夫が離婚して、10年以上経ちましたから、ジャックももう天に召されたことでしょう。

でも、元の飼い主さんと生き別れるようにして、私たち夫婦の子どもになってくれたジャックは、私たち夫婦のことも忘れないでいてくれることでしょう。

 

物心つく前から、私は犬と暮らしてきました。

 

札幌から苫小牧市に引っ越す時に、どこかへ連れて行かれてしまった「キュースケ」。

引っ越し先の苫小牧市で、2年ほど一緒に過ごした「キュースケたち」。

 

父はその「キュースケたち」を、自分の都合で手放したことを真剣に悔いて、反省していました。

善良な父を反省させた「キュースケたち」。

 

元夫と暮らした日々を共に過ごした三匹の犬たち。

生まれ変わりのように現れたジャック。

 

どの子も可愛かった。

可愛がったぶん、昨日お話しした、生まれてこれなかった私の兄や姉のように、これからも私を守る神なのでしょう。

 

犬は英語で「DOG」逆さにすれば「GOD」。

私にとっての犬は「神」なのです。

障害を持ち、地方で暮らすということ

今日は、発達障害などの精神的な問題を抱える人の就業サポートのための福祉の窓口に、電話で問い合わせをしました。

 

何箇所かでアドバイスを頂き、徐々に絞り込み、私にできることを見つけていきたいです。

いよいよ始動し始めたという感じですね。

 

今のところ、私は北海道に生き北海道で死のうと思っています。

札幌出身の私は、人生の90%程度を札幌で過ごしてきました。

 

幼い頃、数年間、北海道の苫小牧市という街に住みましたが、それ以外は札幌で過ごしました。

苫小牧に住んでいたのは、父が仕事が長続きしない人で、一時期苫小牧で働いていたからです。

 

人様には恥ずかしいので、父の仕事の都合と言って「転勤ですか?」と聞かれれば「そうです」と答えていますが、違います。

父は転勤が必要なかっこいい仕事には就いていませんでした。

父は穏やかな性格で、頭もよかったのですが、周りで一緒に働く方々とうまく付き合うことができなかったのです。

 

他にも、フルタイムで働いていた母に毎朝、出汁から丁寧にとった味噌汁を作ることを強要したり、思い込みで私に大学進学だけを押し付けたり。

 

おそらく、父は発達障害を抱えていたのだと思います。

性格は穏やかでしたが、相手の気持ちと自分の考えをすり寄せることができない人でした。

古い世代の人間ですから、診断もサポートも受けられずに死んでいきました。

 

このような父でしたから、仕事が長続きせず職場を転々としていたので、幼い頃の一時期、私は苫小牧市に住んでいたのです。

 

苫小牧市以外は、私は札幌で成長し大人になりました。

大学も北海道大学に進学し、実家から通いましたし。

 

印度哲学を本格的に学べるということが、大学選びで最も優先したことでした。

札幌以外でも国公立で印度哲学を学べる大学があり、アルバイトをしながら進学しようかという話も出たのですが、学生の本分は学業であり、不確実なアルバイトを当てにするものではない。

 

こういった理由で、北海道大学一択。

滑り止めは受験しませんでした。

 

私が大学受験した頃は共通一次試験の時代であり、国公立大学は一校しか受験できませんでした。

実家の経済的な問題で、私立大学に進むという選択肢はない。

以上のような事情で、北海道大学しか受験しませんでした。

 

つまり、滑り止めは受験できない。

一発勝負で、不合格であれば浪人生活。

 

このように追い込まれた状況の方が、私は実力を発揮できました。

退路を断った方が、私は実力を存分に発揮できたのです。

 

北海道大学に進学して、本当によかった。

キャンパスが広く、校風は素朴で堅実。

 

今の現役北大生は、お洒落な学生さんが増えたのではないかと思うのですが、私が通っていた当時は、どちらかと言えば野暮ったい学生が多かった印象です。

 

女子学生はブスとも言われていましたね。

実際には美人もいたのですが、私が通っていた頃の北海道大学の女子学生の比率は、全学部を通して十数%程度で、四年制大学に進学する女子学生の数も今より少ない時代でした。

 

道外出身の同級生の中には、大学時代という貴重な若い時期を北海道という浪漫に満ち溢れた土地で暮らしてみたいからという理由で、北海道大学を志望したという人もいました。

 

北海道は今でも、47都道府県の魅力度ランキングで堂々の1位です。

食べ物が美味しい、広々、伸び伸びしている、季節の移り変わりがはっきりしている。

魅力がいっぱいの浪漫チックな土地です。

道外出身の北海道大学の同級生たちの中に、この浪漫を進学先を決める要素に入れていた学生もいたことは、全くその通りであると頷けます。

 

 

大学は北海道大学に進学し、札幌で生まれ育った私は、とにかく北海道志向です。

 

大学を卒業すると、多くの同級生が東京を中心とした大企業に就職を決めて進んで行きましたが、私は大学卒業後に就職した会社を9カ月で辞め、その後は札幌でフリーターをしていました。

 

元夫と結婚生活を送っていたのも札幌です。

 

何と言っても、地元は落ち着きます。

 

実は、50日間だけ東京で暮らしたことがありますが、やはり私は北海道、札幌で生きる気持ちしかない。

そう考えて、50日で札幌に帰ってきました。

 

50日間の東京生活では、日雇いの仕事をしながらカプセルホテルで眠り、最後の10日間だけ契約したアパートで暮らしましたが、やっぱり私は北海道で暮らす気持ちしかない。

違約金を払ってアパートを解約し、札幌に帰ってきました。

 

思えば、このような行動に出たことも、自閉症スペクトラム障害の影響ではないかとも考えます。

東京で50日間だけ暮らした頃は、そのことには全く気付いていませんでした。

 

でも、自閉症スペクトラム障害に気付かなくても、私は北海道に帰ってきて札幌で暮らしたかったですね。

 

大学を卒業して就職する時も、北海道志向でした。

東京、何するものぞという気概に満ち溢れていました。

ですから、就職した会社を9カ月で退職し、その後は札幌でフリーターをしたことの方が、私の本領発揮と言えるのです。

 

今の私は、自閉症スペクトラム障害が正しく診断され、サポートを受けながら働くのか、障害者枠で働くのか、働く場所を探している状態です。

ただ、言えることは今後も札幌で働き、生活していこうということには何の変りもないということです。

 

テレビなどを見ていると、東京でやりがいのある仕事に就き、能力を存分に発揮している優秀な方を多く見かけます。

しかし、私はそちらに行くべき人間ではない。

 

勉強は大好きで大得意ですが、それは自閉症スペクトラム障害がある私の、著しい能力の偏りによるものです。

勉強ができても一般的な仕事が苦手な私は、都会でバリバリ働く人間ではないのです。

 

人によっては、こういう状況を嘆かわしく感じ、行き詰まる方もいるかも知れませんが、私は寧ろお誂え向きだと考えています。

 

北海道に生まれ、北海道で生活し、北海道で死ぬことを何よりも望んでいる。

勉強は得意でも、一般的な仕事がほぼできない。

 

私の願いと能力、障害(個性)を全て考慮すると、障害を持ち地方で暮らすことが、私に一番相応しいことなのです。

 

コロナウィルスの問題が未だ収束しませんが、毎日伝えられる東京都の感染者数。

東京一極集中の弊害が見えてきます。

 

ニュース番組などで見る東京都の映像は、どこに行っても人人人人人。

人口密度が高く、密集しているから感染が収束しないという面も否定できないのではないでしょうか。

もう少し、人と人が分散しなければ、事態の収束に近付くことは困難なのではないでしょうか。

 

東京一極集中の弊害は他にもありますが、感染収束の妨げにもなりかねない密集は忌々しきことだと考えます。

 

生まれ育った土地で自分らしく暮らし、相応しい生活をすることが何よりの幸せです。

 

 

医学部を目指していた頃

子どもの頃から誰でも、大きくなったら何になりたいか夢を思い描きますよね。

私が記憶にある範囲では、最初は看護婦さんになりたかったですね。

今は看護師さんと言われていますが、私が幼い頃は看護婦さんと呼ばれていました。

 

保育園に行っていた頃の私の夢は、看護婦さんでした。

一時期、母と同じ職場の方が毎朝、迎えに来てくれてその方の車に乗り、私と弟を先に保育園で降ろして母は仕事に向かっていました。

 

ある日、その親切な方に「とまとちゃんは、大きくなったら何になりたいの?」と聞かれました。

保育園児だった私は、迷わず「看護婦さん」と答えたのですが、その方に「じゃあ、便所掃除しなきゃならないね」と言われました。

 

軽い気持ちで子どもをからかったのだろうと、今では笑い飛ばせる話ですが、まだ保育園児だった私は向きになって反論し、看護婦さん以外の仕事を挙げたのですが、その方はとにかく「便所掃除しなきゃ」と繰り返したので、私はなんだか悔しくて泣いてしまった記憶があります。

 

その方も大人げないですが、昔の大人って現代の大人よりも残酷で、ずけずけ物を言う方が多かったような気がします。

 

いわゆる、放送禁止用語がテレビでも飛び交っていましたし。

視覚障害聴覚障害、肢体不自由な方に対しても、容赦ない差別的表現が投げかけられていた時代でもありました。

 

今はそういうことは許されなくなりましたが、逆に言えば「言葉狩り」も散見されるようになりましたね。

相手の言葉尻を捉えて、揚げ足を取るという問題が出るようになってしまいました。

 

ですから、昔は昔、今は今で問題が絶えることがないのですね。

 

話が脱線してしまいました。

 

つまり、保育園児だった私は、朝保育園に行く時に送って行ってくれていた、母の職場にいた親切な方の言葉に向きになっていたのです。

子どもらしいと言えば子どもらしいですね。

 

そのような感じで看護婦さんに憧れていたのですが、小学生になる頃には、動物が大好きだった私は獣医さんになろうと思い始めました。

父にそのことを話すと、大学に行く必要があると教えてくれました。

 

後に進学する北海道大学にある獣医学部であるとか、帯広にある帯広畜産大学であるとか。

 

動物が大好きだった私は、俄然、勉強に対するやる気が湧いてきました。

元々、勉強は好きだったのですが、ますますやる気が出ました。

 

そこで、ある時、塾に行きたいと母に頼んでみたのです。

しかし、母はすぐに賛成してくれませんでした。

 

当時、私は小学校の四年生くらいだったので、母に口答えしたり、自分の考えを伝えようとしたのですが、話し合いは平行線のままでした。

とうとう、親子喧嘩になってしまったのですが、今でも忘れられないですね。

 

母は、あろうことか、こう言ったのです。

「女の子が獣医さんになって、どうするの?!」

 

何ということでしょう。

現代なら、世間様に怒られてしまうような暴言です。

 

つまり、女の子は獣医師になれない。

結婚すれば続けられない。

私は小学校四年生くらいでしたが、そういう意図は伝わってきました。

 

大変、失礼な発言ですね。

今は、女性の獣医師の方もたくさん活躍されています。

 

こういうことを言われてしまったので、以前もお話ししましたが、私は結婚して家庭を持つことや子どもを持つことに魅力を感じられなくなってしまいました。

 

元夫が、私のこういう気持ちを理解してくれる人だったので、結婚はしましたが。

 

これは、私が未だに母に対して怒っていることでもあります。

 

かなり時間が経ち、大人になってから母にその発言の真意を尋ねてみました。

 

母は、こう答えてくれました。

「当時(今もずっとそうなのですが)私の実家は金銭的にかなり苦しく、私を塾に通わせる余裕はなかった」

 

大人になれば、頭で考えて理屈ではわかるようになっても、子どもの頃に言われたことというものは、その後一生涯に渡って心の奥底に残っていくものです。

 

母の気持ちはわかっても、やはり、10歳くらいの私に言うべきことではないですね。

 

ただ、小学生までの将来の夢というものは憧れの域を出ず、大人に連れて変わっていくものではありますが。

 

中学生くらいになると、精神科医を目指すようになりました。

小学生の頃から精神的に不安定で、一時、離人症の症状が出た時期もあったくらいです。

 

それでも、私の両親は1930年代に生まれた古い世代なので、私に精神的な問題があると疑う価値観を持っていませんでした。

自閉症スペクトラム障害が、最近になって、50代になってやっと診断されたように、精神的な問題に関しては、ほぼ放置されてきた訳です。

 

生まれながらに精神的な問題を抱えた私は、中学校に入学すると摂食障害を発症しました。

拒食に陥り、体重が30kg台まで落ち込んだのですが、やはり積極的な治療を受けさせてもらえませんでした。

 

この摂食障害の問題も、自閉症スペクトラム障害同様、ほぼ放置でしたね。

結婚してから、元夫が治療に協力してくれました。

 

中学生になった私は自身の心の問題を探るため、精神科医という仕事があることを知り、志すことにしました。

これは、高校に入学しても変わりませんでしたね。

 

私は、札幌南高校という高校の卒業生なのですが、入学した頃はそういった志があったので、迷わず医学部を志望して勉強していました。

 

医学部は入学試験に数学と理科が課せられることが多く、理系の傾向の勉強が必要です。

これは、あまり苦になりませんでした。

 

その頃から、こうして文章を書くことも好きでしたし、文系の科目もよく勉強していました。

前述したように、私が生まれ育った家庭は貧しかったので、私立大学に進むという選択肢はなく、国公立大学しか選べなかったのですが、私は完全に国公立大学向きでしたね。

 

私は共通一次試験世代なのですが、今ほど選択の幅は広くなく、理系でも医学部志望でも、国語や英語も満遍なく得点することを求められ、私は寧ろそこに強みを発揮するタイプでした。

 

あのまま進めば、私は医師になっていたのではないでしょうか。

 

ところが思いがけない分かれ道に出くわしたのです。

共通一次試験を想定し、国語の勉強にも熱心に取り組んでいた私は古典文学に出会いました。

 

国語の中でも、特に古典文学との出会いが、私の人生を変えたと言っても過言ではありません。

 

特に多くの作品で描かれる無常観が、私を虜にしました。

万物は流れて消える。

人間もそのようなちっぽけな存在にすぎない。

 

そこで、無常観が描かれる仏教思想などを学べる学問として、印度哲学を志すようになり、あっさり医学部志望から転向しました。

 

元は医学部受験を目指して数学や理科も懸命に勉強していたので、最終的に文系を目指すことになっても、共通一次試験を受験することには変わりなく、どの科目も満遍なく得点し、合格圏内に近付くことができました。

 

医学部志望から転向したことは、私にとってはプラスに働きましたね。

 

そして、文学部で印度哲学を学んでわかったことですが、実は医学の世界こそ、印度哲学的な視点が必要だと知りました。

 

医学の進歩は、多くの恩恵をもたらしました。

治らなかった病気が治るようになり、救えなかった命が救われ、寿命も延びました。

 

しかし、また大きな問題が生まれました。

どんな治療をどこまでやるのが許されることなのか。

倫理的に許されるのはどこまでなのか。

神の領域はどこからどこまでで、人間はどこまで立ち入っていいのか。

 

これに答えるのが哲学の役割です。

最先端の医学は、実は古くから存在する哲学に答えを求める。

 

そういう意味では、私が進んできた道は終始一貫していたと言えます。

 

人間として生きる意味や、自然や或いは神の前では、人間とはちっぽけであると弁えること。

 

医学の道に進んでも、私はこの問題にぶつかっていたでしょう。

他の道に進んでも同じことだったと思います。

 

根源的かつ本質的なことを追究する哲学を学んで、医学部に進むよりも大きな収穫を得ることができました。

印度哲学は、私の変わることのない一生の財産です。

 

 

 

 

 

 

 

旅は道連れ世は情け

今日は旅のお話をします。

私は旅が大好きです。

今は感染爆発の問題もあり、なかなか行くことができません。

 

一番最近、旅をしたのは去年の9月です。

函館と京都に行ってきました。

 

函館は、死んだ父の故郷です。

でも、私は父に函館に連れて行ってもらったことが一度もありませんでした。

ですから、どんなところか行ってみたいとずっと思っていたのです。

 

父が私を函館に連れて行ってくれなかった理由は、わかっています。

父は小学生の頃に、自分の父親を病気で亡くしました。

 

父は8人兄弟の7番目の子で、自分の父親を亡くすと年が離れた兄弟に育てられたそうです。

中学生までは函館にいたそうですが、その後は兄弟を頼り、

北海道内のあちらこちらの都市を移り住んだそうです。

 

その時点で、函館にあった父の実家は消滅したようです。

父の母親、私の祖母も、子どもたちの家を順に回って一緒に暮らしたり、かなり高齢になってからは病院で過ごしていました。

 

そういう事情で、私は函館に行ったことがなかったので、どんなところかこの目で見ておこうと思いました。

去年の9月から仕事も休業しましたし、感染の問題も一旦落ち着いたかのようだったので、思い切って函館に行くことにしました。

 

札幌から長距離バスで5時間ほど。

到着した函館は、札幌よりはのんびりした感じで魅力的でした。

 

朝市に行ったり、五稜郭タワーに昇ったりと定番コースを一人でゆっくり回りました。

一人で何かをすることが圧倒的に好きな私は、やはり函館も一人で回りました。

 

一人で何かをするのが好きなので、旅はいつもツアーではなく自由な個人旅行ですね。

海外に行く時もそうです。

外国の航空会社やホテルは、主にホームページから予約します。

旅行サイトも参考にしますし、費用と自由度の高さが決め手になりますね。

 

函館も気ままな自由旅行を存分に楽しめました。

朝市や五稜郭タワーといった、定番の場所以外にも絶対に訪れたい場所がありました。

 

父の実家があった松風町です。

父は、松風小学校という学校に通っていたといつも言っていました。

残念ながら、松風小学校は他の小学校と統合され廃校になってしまいました。

 

松風小学校が統合で廃校になる時、卒業生の父のところに記念品が送られてきました。

父がどうやって札幌市内にある今の私の実家を、卒業した松風小学校に登録していたのかはわかりませんが、廃校の時に記念品が送られてきました。

 

函館の松風町、ゆっくり歩きましたが、函館駅からも近く街の中心部なのですね。

一般のお宅よりも、お店などが多かった印象です。

 

父は小学生の頃、どの道をどう歩いて松風小学校に通っていたのか。

毎日、何をして過ごしていたのか。

近所に友だちはいたのか。

友だちと何をして遊んでいたのか。

 

色々なことを考えながら、松風町をゆっくり歩きました。

 

父は小学生の頃から勉強が好きで、あだ名は「博士」だったとよく言っていました。

私のイメージが、小学生だった父にそのまま当てはまるのなら、父は外で同年代の子どもと遊ぶより、家で一人で本を読んで過ごしていたのではないかと想像します。

 

私の自閉症スペクトラム障害は、おそらく発達障害を抱えていたであろう父からの遺伝だと思うのですが、発達障害がある方の中にはかなり優秀な方も少なくない。

父も読書好きで物知りで頭はかなり良かったのですが、私と同じで一般的な仕事が苦手な人でした。

 

昔の人間ですから、正確に診断されることもなく、精神的なサポートを受けることもなく、癌で死んでしまった父の苦労はどれほどのものだったか、胸が痛みます。

 

こうして、函館では父が幼い頃を過ごした松風町を歩き、私のルーツに触れることができました。

父が小学生の頃に病死した、会えなかった私の祖父は病気になる前、元気で若かった頃、やはり松風町、函館の街のどこかを歩いていたのか、そんなことも考えました。

 

函館には三泊四日の予定で行き、札幌に帰る予定だったのですが、函館から京都に行こうと思い立ち、そのまま向かうことにしました。

 

京都に向かおうと思ったのは、清水寺にお礼参りに行きたかったからです。

 

私は、子宮頸がんで手術を受け、子宮を全摘しているのですが、幸い早期発見で手術後の何年間かは経過は順調でした。

しかし、ある年、膣断端部高度異形成と診断され、以来、3ヶ月に一度程度は外来で検査を受け、一年に一度は入院して検査を受けています。

 

気が抜けない状況なので、一昨年、京都に旅行した時、清水寺でお守りを買いました。

それから一年ほどが経った去年の9月、膣断端部高度異形成のままではあるけれども、癌の再発には繋がっていないので、それについて清水寺の仏様にお礼を申し上げておきたかったのです。

 

京都には函館空港から飛行機で向かいました。

函館空港を利用するのは初めてでしたし、京都に行くために降り立った伊丹空港も初めて行きましたね。

 

京都に到着し、清水寺をお参りした日はどしゃ降りでした。

しかし、日程を変更することなくお参りしました。

どしゃ降りという困難の時にあえて決行することで、私の決意を仏様に見て頂きたかったのです。

 

清水寺では、一年間私を守って下さったお守りに感謝し、お返ししてきました。

お返ししたお守りの色違いの同じお守りを買い、また一年間願いをかけたいと考えています。

 

でも、オッチョコチョイの私は、あることを間違ってしまいました。

 

上記のように、癌が再発したりしないように清水寺でお守りを買ったのですが、それとは別に一昨年、京都に行った際に癌封じの蝋燭を灯し、納めてきました。

その癌封じの蝋燭をお納めした場所は、金閣寺だったのですが、私は清水寺だと勘違いしていて、去年の9月に京都に行った時に、同じ清水寺の中で癌封じの蝋燭の場所を探し回っていたのです。

 

でも、後から考えたら、それは清水寺ではなく金閣寺だった。

失敗しましたね。

私は、こんな風にかなりのオッチョコチョイです。

 

今度、京都に行ったら金閣寺にも行きたいですね。

清水寺のお守りは、またお礼をするために納めてきたいですから、また京都には行かなければなりません。

 

今後ずっと京都に行き続けてもいいですね。

以前もお話ししたように、北海道大学の文学部でインド哲学を学び、仏教の教えを得意分野としていた私は、京都に多くあるお寺にはとても興味があります。

 

国内も、一番遠くは沖縄に行きましたし、関西や四国、九州も行きましたね。

沖縄に行った時は、とにかくビックリしました。

4月に行ったのですが、皆さん、海水浴してましたよ。

4月なら、北海道は場所によってはまだまだ雪が残っています。

何年かに一度は雪が降ることもありますから、沖縄に行って4月に海水浴をしている様子を見た時は、驚きましたね。

 

日本国内を旅するのもいいですが、海外旅行も好きですね。

前述したように、海外に行く時もいつも一人です。

予約も代理店などは通さず、自分で個人的に取ります。

 

どこに行く時もそうなのですが、必ずノートパソコンを持参します。

個人的に一人で行くので、ノートパソコンが入るセーフティーボックスが部屋にあるかどうかが、非常に大切なポイントになります。

 

ホテルの案内のサイトに、明確にセーフティーボックスがあると謳われていればよいのですが、それが明示されていない場合は個別にホテルに問い合わせなければなりません。

 

去年の1月にエジプトに行った時も、ノートパソコンが入るセーフティーボックスがあるか、不明だったのでホテルに個別に問い合わせました。

 

そうしたら、丁寧に写真付きのメールが返ってきました。

しかも、その写真がホテルのスタッフがスマホで撮ったようなものだったのです。

セーフティーボックスの大きさも明記されていて、ノートパソコンを安全に入れておけることがわかり、そのホテルに決めましたね。

スマホで撮ったセーフティーボックスの写真、微笑ましかったです。

 

今はいつ、また安全に海外に行けるようになるか見通しが立たない状況です。

しかも、私は自閉症スペクトラム障害と診断され、今後、どんな職場でどんな仕事に就けるかが白紙になってしまいました。

就ける仕事によっては、海外旅行はもちろん、国内旅行からも遠ざかってしまうかも知れません。

 

定期的に旅に出たいので、シフト制の仕事をしていた時期もありました。

一週間ごとにシフトを出せる仕事に就き、シフトの合間に旅に出る。

私にとっては理想的な環境でしたが、環境は整っていても私は仕事ができず、辛いと感じることの方が多かった。

 

仕事がうまくできない理由は、自閉症スペクトラム障害があるからだとわかったので、できれば旅に出られる環境と私の障害・個性とが両立できる仕事が見つかればよいと考えています。

 

仕事を選ぶ時は、旅に出やすい環境があった方がいい。

そう考えた私は、在宅で文章を作る仕事をしていたこともありました。

私の夢は、旅をしながら仕事をすること。

 

そう考えて、在宅で、或いはパソコン一つあれば、どこでも仕事ができることを志したのですが、それは所謂webライティングの仕事でした。

以前にもお話ししましたが、webライティングとはマニュアルに縛られ、検索上位で出てくるような文章を作る仕事です。

SEOを意識し、キーワードを選定しといった作業は、私には苦痛でしかない。

 

自閉症スペクトラム障害を抱え、能力の偏りが著しい私が最も苦手とすることは、マニュアルから逸脱しないこと。

ゼロから起こすのは大得意ですが、マニュアル通りに物事を進めるのは大の苦手であり、苦痛でしかない。

webライティングは、同じ文章を作る仕事でも私にとっては、正に鬼門でした。

 

最後に、旅と言えば思い出すのが、幼い頃に出会ったおじさんのことです。

 

父は函館の出身ですが、母は北海道の日高地方、昆布の名産地の出身です。

私が幼い頃は、夏になると昆布漁を手伝いがてら、母の実家に行っていました。

 

父が運転する車で行く時もあったのですが、何か仕事の都合だったのでしょうか、母、私、弟の三人で行くこともあり、運転免許を持たない母とは鉄道を利用して行っていました。

 

鵡川と様似の間が廃止になる予定の日高本線を利用して、母の実家があった小さな漁師町に向かいました。

当時、私たちの一家は北海道の苫小牧市に住んでいたので、苫小牧から日高にあった小さな漁師町に、鉄道で向かいました。

 

今でも覚えているのですが、途中の日高門別の駅で降りて行ったおじさん。

列車の中で向かいの席に座り、母や私、弟と話が弾み、途中の日高門別駅で降りたおじさんは、私たちが窓から手を振ると何度も振り返って手を振ってくれていました。

 

あのおじさんは、あれからどうしたのでしょう。

家族が待つ家に帰り、旅の話をしたのでしょうか。

それから、おじさんはどうしていたのでしょう。

 

私の記憶では50代くらいの方だったと思います。

おそらく今はもう、人生という旅を終えているのでしょうか。

 

長い人生の中で、ほんのひと時ご一緒しただけの方ですが、今も私の心の中に振り返って手を振ってくれていた姿が残っています。

旅の数だけ思い出は増えていきます。

 

試行錯誤

今日は、のんびり過ごすことができました。

 

以前、このブログの他にメインのブログ『とまと万夜一夜物語』というものも書いているとお話ししたのですが、そちらをリニューアルすることにしました。

 

リニューアルと言っても、どんな風にリニューアルするのか?

これは、結構迷いましたね。

 

今の私のブログは、メインの『とまと万夜一夜物語』も、こちらのサブのブログ『とまとの呟き』も、はてなブログで公開しているのですが、メインの『とまと万夜一夜物語』を、他のブログサービスにお引越しするのか、引っ越しはせず今まで書いてきたものを削除して書き直すのか、いろいろ考えました。

 

結論はこうです。

 

せっかく書いてきたものは削除しない。

はてなブログ以外のサービスへのお引越しもしない。

 

よって、はてなブログのサービスを継続して利用しつつ、今まで書いてきたものも残す。

『とまと万夜一夜物語』というタイトルを『小説・スカイゾーン』に変更し、タイトル変更後の話を、新たに第一話からスタートさせることに決めました。

 

何事もそうですが、せっかく今まで続けてきたものは、特別不都合がない限りはそのまま残し、それを元に新しいものを作り上げていくことが大切だと考えました。

 

構成としては、今まで176話まで書いてきた『とまと万夜一夜物語』については、そのまま残し、それに続く形で『小説・スカイゾーン』を新たな第一話から展開することにします。

 

ますますパワーアップしなければ。

 

このように、物事とは「試行錯誤」の繰り返しです。

 

前回もお話ししましたが、自閉症スペクトラム障害と診断された私は、今後は仕事に就く上でサポートを必要とします。

今日、福祉の窓口に電話を入れたのですが、既に受付時間が終了していました。

 

これから、その福祉の窓口に受付をして頂き、面談が必要になれば面談し、私が向かうべき方向を絞り込んでいきます。

 

決まるまでにはまだまだ試行錯誤の連続でしょう。

しかし、向かうべき方向が定まったのですから、着地点は必ず見えてくるはずです。

 

それから、今日は母とも電話で話しました。

母の希望である施設入所の件で、連絡を取りました。

 

一番の問題は、かかる費用のことです。

母の月々の年金額は、かなり少なく、施設選びで一番重要視したいのは費用の問題です。

 

札幌市内の相場だと、かなり厳しいですね。

選択肢を札幌市外、近郊地域まで拡大させる必要があるかも知れません。

 

その他に、月々かかる施設の費用以外にも、母が自由に使えるお金も残しておく必要があります。

高齢になると病気にも罹りやすくなるので、医療費も考慮しなければなりません。

 

施設にかかる費用+母が自由に使えるお金+医療費+余裕を見て取っておかなければならない金額≦母に支給される年金額

 

このような数式で考えていかなければなりません。

母も貯蓄はあるのですが、それは当てにしないで考えるのが妥当でしょう。

貯蓄とは、緊急事態の為に取っておくべきものですから、母に月々支給される年金で賄える施設を見つけなければなりません。

 

そういう事情で、母に月々支給される年金を考えると、札幌市内で施設に入所するのは厳しい見通しですが、母の希望は札幌市内、できれば住み慣れた地域にいたいので、今住んでいる場所の近くがいい。

 

母の希望に合い、支給される年金額で賄える、且つ、私や弟も訪問しやすい場所。

あれこれと考えればキリがありません。

正に、試行錯誤の真っただ中です。

 

しかし、人間とは創意工夫し思考し、そこから結論を導き出せる知的生命体です。

試行錯誤こそが人間の思考力を伸ばし、より良い結果を生み出すのです。

 

自分の今後の仕事のこと、母がこれから入所する施設のこと、考えなければならないことはたくさんあります。

ですが、こういう状況の方が寧ろ充実していますね。

 

私は、幼い頃、若い頃からずっとこんな感じです。

何か横たわるテーマを見つければ、必ずそれに全力で取り組み、解決に向けて働きかけることに生きがいを感じます。

 

昨日もお話しした、日本国の教育の失敗の話ですが、暗記重視、とにかく枠からはみ出さないことを美徳とする、誤った教育が蔓延ったために、自律できない人間が大量生産されてしまいました。

 

これは国家の損失です。

これからの日本は大丈夫でしょうか?

問題解決能力や、自己決定の能力が低い若者が生み出されてしまった。

 

しかも、物事に対して大切と考える順序がおかしい者がいる。

最低限必要な情報すら得ることなく、ネットで自分にとって都合のいい情報しか仕入れない。

 

ぬるま湯の中で殺される蛙と同じですね。

このような蛙は、自ら考え行動し、物事を解決しようという気概がない。

誰かが代わりにやってくれると安易に考えている。

 

昨日も述べましたが、緊急事態宣言下、十分な成果が出ていると言い難いのは、このような蛙が跳梁跋扈しているからでしょう。

 

自ら考える力のない者は言われたことしかできず、自粛要請だからこのくらいはいいだろうと、勝手な行動をする。

結果、感染拡大が止まらない。

 

試行錯誤せず、自ら結論を生み出そうとしないことは、社会や国にとっての損失です。

試行錯誤は、人間にとって最も必要なことです。

 

すぐに簡単な答えを与えてもらうことを期待するだけでは、何も解決しません。

答えなど最初からないのです。

答えとは自ら思考し、作り出すものです。

 

私は今までも試行錯誤を繰り返してきましたが、今また、自身の仕事のこと、母の施設入所のこと、新しいテーマが生まれました。

しかし、これまでもそうしてきたように、これからも試行錯誤して答えを導き出し、前に進んでいくだけです。

仕事のアドバイス

先日、私が自閉症スペクトラム障害と診断されたというお話をしましたが、今後はサポートを受けるため、精神科の病院に通います。

 

かなり前のことですが、精神疾患になり北海道大学病院で治療を受けていたことがありました。

今は回復し元気に生活しています。

 

これから精神科の病院に通う理由は、生まれながらの自閉症スペクトラム障害のサポートを受けるためです。

障害は個性であり疾患ではありませんから、治療ではなくサポートやケアを受けるために通います。

こういった形で通院しますから、通う頻度は多くないのですが、主治医になってくれる精神科医のアドバイスの通りに進みます。

 

明日、さっそく通院するのですが、病院にいるソーシャルワーカーさんにお会いします。

私に向いている仕事、サポートを受けられる職場についてお話をうかがいます。

 

仕事に関しては、今までの私は全くうまくいかなかったと言ってもよいくらいです。

学問はかなり得意ですが、社会人として普通の人が普通にできる簡単なことほど、私は悪戦苦闘してきました。

 

いわゆる、使えない人間。

 

そうなのだろうか?

今まで原因もわからず、50代になりましたが、今後私の主治医になってくれる精神科医にアドバイスされ、心理検査を受けたことが良いきっかけとなりました。

 

心理検査の結果は、私には自閉症スペクトラム障害があり、著しい能力の偏りがあるというものでした。

よって、学問が得意で高学歴、難解な印度哲学は理解できるのに、簡単な作業すらできない。

 

このような能力の捻れ、偏り。

前にもお話ししましたが、この偏りを数値化すると同じような偏りを持つ人間は、全人口の0.4%しかいないというのが、受けた心理検査の結果でした。

 

このような事情で、今までの私は仕事が全くうまくいかなかった。

 

これを踏まえ、私にはどんな仕事が向いているのか。

サポートが受けられる職場を探そう。

こういう結論に至り、明日、病院のソーシャルワーカーさんにお会いします。

 

50代にして、やっとスタートラインに立ちました。

 

主治医になってくれる精神科医も言っていましたが、原因がわかれば対策が取れる、対策が取れれば向かうべき方向が見えてくる、向かうべき方向が見えれば到着すべき地点が定まる。

 

非常に心強い後ろ盾ができました。

今後の展開が非常に楽しみです。

私と同じような個性を持つ方も、前進して頂きたいですね。

 

今になって、自閉症スペクトラム障害が正しく診断された意味は必ずあるはずです。

若い時、子どもの頃に診断されていたら、私の人生は全く違ったものになっていたでしょう。

 

それがどんな人生かはわかりませんが、今までのように、学問では能力を発揮し、志した印度哲学を修めてこれたので、人生をやり直したいとは思わないですね。

 

明日、ソーシャルワーカーさんにうかがう話が本当に楽しみです。

また、明日、このことについて書きたいと思います。

自分の子どもはいません、それで良かったのです

私には自分の子どもがいません。

離婚して今は独身ですし、結婚していた頃、子どもは持ちませんでした。

 

その理由は、子どもを持つことに対して希望が持てず、また、それを強制されたからということにあります。

 

家庭を持つつもりもありませんでした。

 

それでも結婚したのは、上記のような私の言いぶんを、元夫が理解してくれたからです。

結婚しても子どもはいらない。

 

それは、幼い頃から苦労が多く、家庭を持つことに対する希望が持てないし、況してや子どもを持つことは、私にとっては不幸せ以外の何ものでもない。

 

私がこれだけのことを言っても、元夫は一緒に暮らしてもよいと言ってくれたので、結婚はすることにしました。

 

この人となら、共に生きていけると思ったからです。

 

結婚はしても子どもはいらない。

娘の立場として苦労ばかりさせられてきたので、自分の子どもを持つことに全く希望が持てない。

 

元夫は理解してくれ、二人での結婚生活が始まりました。

 

幼い頃から苦労ばかりで、子どもを持つことに希望が持てない。

これ以外の理由は、子どもを持つことを強制されたからです。

 

幼い頃から、私は大人になったら、よその家に嫁ぐものとして厳しく躾けられました。

家事は完璧でなければならない。

嫁ぎ先に気に入られるような女の子でなければならない。

そして、おそらく発達障害を抱えていたであろう、父の過剰な期待です。

 

私を一人の人間としてではなく、娘、女の子として父は捉えすぎていた。

25歳くらいまでに結婚し、子どもを持つ。

父は過剰にこのようなことを、私に期待していました。

 

しかし、その一方で男子以上に学業が優秀な私に、良い大学に行き、良い会社に入り、仕事ができる女性たれ。

腰掛けで仕事をするのは、低学歴で無能な女。

父はそのような、とんでもないことばかり言っていました。

 

こういった点、自分の思うことはみんなが思うこと、みんなが思うことは自分の思うことではない。

発達障害の典型ではないでしょうか。

自分の思い込みが全て。

他の人の胸中はお構いなし。

 

このような父から、女性としてだけの機能・出産することに過剰に期待されることは、私にとっては、出産の強制以外の何ものでもありませんでした。

結婚して出産すれば、異様に自分の考えにこだわる父の思うつぼ。

私は、これに対しては猛反発する気持ちしかありませんでした。

 

そういう訳で、自分の子どもは持ちたくない。

そういう結論に至りました。

人間は、一方的に相手から考えを押し付けられたら、嫌気が差すものです。

 

もう一つ、父の考えで問題なことは、勝手な適齢期。

25歳までには結婚するよう期待するにも関わらず、社会で仕事をする上では優秀でなければならないという、捻じれた期待感です。

 

一体全体、どっちなの?

これに対しても、私は反発していました。

 

一体全体、どっちなの?

勉強して男子以上に優秀であれ。

しかし、女の子らしく控えめであれ。

一体全体、どっちなの?

 

男子以上に優秀であれと言う一方で、女の子らしさを過剰に求める。

 

そして、とにかく勉強、とにかく大学。

父と母は、いわゆる教育パパ、教育ママではありませんでしたが、父の学歴コンプレックスは尋常ではありませんでした。

 

北海道大学に一浪しても入れなかった父は、私が中学校に通うようになり、成績はオール5、定期試験では常に学年でもトップクラスと、優秀であるとわかると、やはり過剰な期待ばかり膨らませていました。

 

結婚していた頃、お姑さんに言われたことですが、私は学問に対して優秀ではない方が、よかったのかも知れないということ。

なまじ優秀だったために、父は過剰な期待感ばかり膨らませ、結果的に私の可能性を摘み取ったと言えます。

 

幼い頃から勉強は好きでしたが、優秀なのだからとにかく大学、それ以外は一切認めないという、典型的な発達障害であったであろう父の頑固さが、私の可能性を閉ざしたと思っています。

 

もっと広い視野で、私に対して接することはできなかったのでしょうか?

できなかったということは、父はやはり、相手の胸中を汲むことができない発達障害を抱えた人間だったということでしょう。

 

私の可能性は、こういう父の欠落した部分に摘み取られたということです。

勉強は好きですが、もっと違う可能性も広く捉えて欲しかったですね。

 

何度か、大学には行かず専門学校などに通い、手に職をつけるのはどうだろう?

父にそう提案したこともありましたが、一切聞き入れてもらえませんでした。

 

融通が利かない、違う選択肢が目に入らない。

やはり、父は典型的な発達障害を抱えていたと言えるでしょう。

被害者は私です。

 

また、母にも言われたのですが、女の子は嫁がせるもの。

よその家庭に差し上げるもの。

そういう風にも言われました。

 

これも不愉快でしたね。

私は、差し上げるというような物ではない。

結婚は、女性が結婚相手の家庭に入り、同化するものではない。

 

こう考えた私は、両親に反発することはもちろん、嫁ぐという表現にもかなりの抵抗を感じました。

ですから、結婚で女性が姓を変えるのには今でも抵抗があります。

 

根本的には、昔からの家制度の発想が見え隠れします。

ですから、このことについても、結婚前に元夫とよく話し合い、事実婚夫婦別姓の形を取りました。

 

元夫に出会わなかったら、私はずっと独身だったと思います。

 

ただ、それだけわかり合っていても、同じ人間ではありませんし、夫は夫、私は私。

人の心は変わりますし、年月が経つにつれてお互いが変わっていったということから、離婚に至ったのだとも思いますし、今でも離婚の理由がわからない部分もあります。

 

一度結婚し、離婚した。

では、結婚はもうこりごりか?

 

そんなことはありません。

機会があれば、いい人がいれば結婚してもよいとは思っています。

 

次も、夫婦別姓にするか?

それもわかりません。

私が夫になる人の姓を名乗るかも知れませんし、夫になる人が私の姓を名乗るかも知れません。

民法には、妻は夫の姓を名乗るべし、そんなことは一行も書かかれていないのですから。

 

子どもを持たなかった理由、結婚もしなくてよいと思っていた理由は、幼い頃から貧しく、苦労ばかりで結婚や子どもを持つことに希望が持てなかったこと。

そして、おそらく発達障害を抱えていたであろう父の過剰かつ捻じれた期待。

 

この二つが大きな理由です。

 

しかし、子どもを持ちたくないと思った理由はもう一つあります。

 

中学生の頃に摂食障害を発症し、かなり体重を落とした結果、瘦せ細って生理も止まってしまいました。

 

そこで母に連れて行かれた病院が、精神科ではなく産婦人科だったことが、私の心に暗い影を落としました。

 

私は、心の中の問題を見てもらえず、将来は子どもを産むためだけに存在するのか?

私は、子どもを産む機械としてだけ期待されているのか?

 

これで、決定的に子どもを持つことに対する反発しか残らなくなりました。

 

私の両親は、昭和10年代に生まれ、太平洋戦争中に子供時代を過ごした世代ですから、娘に精神的な医療を受けさせるという価値観は皆無な世代です。

でも、それであれば、せめて学んで欲しかった。

自分の頭で考え、何が本当に必要か追求するべきだったと、私は今も考えています。

 

今でも、母とこのことを話すことはありますが、当時、母も精神のカウンセラーのところには相談に行っていました。

それは間違いではありませんが、適切でもありません。

 

父と母は無知だったのです。

人間としては、真面目で善良、申し分のない人間性の持ち主ですが、逆に言えばただそれだけの無知な人間だったのです。

 

私には物足りないですね。

子は親の進化形。

 

父の賢さも母の素晴らしい人間性も、そのどちらも凌駕する私は、発達障害であったであろうがゆえに、自分の能力を発揮できなかった父、頭はあまり良くなくても人間性が素晴らしい母、その両方の良いところを兼ね備えて進んでいけるのです。

 

その私にとっては、父も母も物足りない。

 

こうして燻っていた思いが表れたのが、子どもを持たないという選択でした。

 

父がおそらく発達障害であったことと合わせて、私自身が診断された自閉症スペクトラム障害、これらの問題を自分より後に生きる世代には残さなくてよかったと考えています。

 

精神の問題は遺伝するのではないでしょうか?

私の自閉症スペクトラム障害は、父からの遺伝に他なりません。

 

私は、自閉症スペクトラム障害を正確に診断されたことは、自分にとっては有意義であり、良い結果だと考えています。

能力の偏りが著しく、学問は得意なのに、普通の人が簡単にできることができない等、問題はありますが、己を正しく知ることは正しい方向に己を向かわせることです。

 

それでも、私は自分の子どもにこの個性は継がせるべきではないと考えています。

自分の問題を自分の中だけで完結させるのはいいのですが、自分とは違う人格の子どもには、背負って欲しくないことですね。

 

この血筋は、私で終わらせるべき。

私は無意識に、このことがわかっていたのかも知れません。

 

話は脱線しますが、私の父こそ結婚すべきではなかった、自分の子どもは持つべきではなかった人だと考えています。

おそらく発達障害を抱えていたであろう、よって、仕事が長続きしない、周囲の人と衝突ばかりしている。

 

こういう人間は、家庭を持つべきではありません。

本人も、家族のために向いていない仕事を無理してやらなければならないのは、苦痛でしかないと思うのです。

 

しかし、父は若かりし頃、母と出会って顔を合わせれば結婚してくれ、結婚してくれとしつこく、困り果てた母が仕方なく結婚したという部分もあったようです。

 

父は、幼い頃に自分の父を亡くし、年の離れた兄弟に育てられたので、自分は温かい家庭を築くことを夢見ていた。

 

理解できない訳ではありませんが、最も家庭を持つべきではない人間が、最も求めたものは家庭を持つことだったという、矛盾と皮肉。

 

私は、こういう失敗をしたくなかったのでしょう。

だから、理由は思いつきますが、それ以上に本能的に自分には何が必要か、弁えていたのでしょう。

 

私は、こうして自分の嗅覚のままに進んできました。

動物的な勘とでも言うべきものでしょう。

 

これを信じて、いえ、信じるということよりも、もっと原始的かつ根源的な判断が、いつも自身を導いてきました。

論理的に考えすぎたり、がむしゃらに進もうとする方が、私はうまくいかない。

 

だから、これからも自分の嗅覚を頼りに、心の赴くままに進むのみなのです。