そんなに勉強ができるようになりたいですか

そんなに勉強ができるようになりたいですか。

人は何故、勉強ができるようになりたいのでしょうか。

私は勉強ができて損をした。

今日はそんな気持ちになりました。

 

昨日のことになりますが、自閉症スペクトラム障害が診断された私は、障害を抱えて働くための相談窓口に行ってきました。

いろいろと面談し、就労継続支援の職場で働くのか、サポートを受けながら一般的な働き方をするのかについて考えました。

 

どちらかと言うと、無理なく働ける障害者枠・就労継続支援A型の職場で働こうと思っています。

また、今はまだ情報収集の段階ですので、多くの情報を集めています。

精神疾患を治療していた時期もあり、その頃は障害年金を頂き生活保護と合わせて暮らしていました。

 

そこで情報だけでもということで、先日、生活保護の申請手続きについても役所で尋ねてきました。

 

ありとあらゆる情報を用意しておき、後で取捨選択すればいいので、今は情報収集に努めています。

 

実家の母にも連絡し、今の私の状況を伝えていますが、ふと考えると50代になって初めて自閉症スペクトラム障害が診断された訳ですから、子どもの頃、私の障害は放置されてきたということです。

 

以前もお話ししたでしょうか。

 

私は中学1年生で摂食障害を発症し、拒食がひどくて生理も止まってしまいました。

その時、母に連れて行かれたのは精神科ではなく、婦人科でした。

このことで私は、自分は子どもを産む役割しか期待されていないのかとガッカリしました。

 

その後も結婚や出産に希望が持てなくなりました。

何事も的外れな期待をされれば、人間は反発しか感じなくなります。

 

この一件に象徴されるように、私の精神的な問題は両親にも理解されず、放置されてきました。

放置されてきましたから、私自身も自分の障害に気付くのがかなり遅れてしまいました。

 

あるご縁で心理検査を勧められ、先月、私に自閉症スペクトラム障害があると、やっと診断されたのです。

 

父と母は、懸命に私を育ててくれましたが、私の心の問題や障害については何を見て、何をしてきたのでしょう。

 

何もしていませんし何も見ていません。

 

私の障害が放置されてきたのは、私が人以上に学業に秀でていたことに因るものです。

自閉症スペクトラム障害など、発達障害がある人の中には学業に秀でた方が少なくありません。

私もそのタイプです。

 

成績はオール5、定期試験の成績は常にトップクラス。

父も母も私の優秀さを過大にかつ誇大に評価し過ぎていたのです。

 

私は元来、勉強は好きなのですが、その上に父と母は胡座をかいていたということですね。

幼い頃から聞き分けのいい、手のかからない子。

勉強をするような年齢になれば、群を抜いて優秀な子。

これらの陰に私の障害が埋没し、放置されてきてしまいました。

 

私の両親は共に1930年代生まれの古い世代で、子どもに精神的なケアを必要とする価値観は皆無な世代です。

そうだとしても、摂食障害を発症したり、異様に勉強ができればおかしいと思わないのでしょうか。

 

母は、私が摂食障害を発症した時は精神のカウンセリングなどに相談はしていましたが、手ぬるいですね。

それは、もう精神医療の問題です。

知らないなら学ばなければなりません。

古い世代だから精神医療を利用するということを知らないでは済まされません。

 

何よりも、私が学業が優秀であったがために、精神の問題が放置されてしまった。

勉強なんかしなければ良かった。

心底、そう考えます。

 

勉強なんかしなければ良かった。

 

そんなに勉強ができるようになりたいですか。

 

勉強ができるようになりたい。

私は一度もそう思ったことがありません。

そう望まなくても出来ていたので、勉強ができるようになりたいと思ったことなどありません。

 

そんなに勉強ができるようになりたいですか。

 

勉強なんかしなくていいです。

 

大事な問題が放置されるなら、勉強なんかは出来なくてもいいです。

 

そんなに勉強ができるようになりたいですか。

 

幻の祖父

明けて2月3日になりました。

昨日は節分でしたね。

124年ぶりに2月2日が節分になったということでした。

 

今日はこのサブのブログ『とまとの呟き』はお休みしようかと思いましたが、やっぱり書くことにしました。

 

124年前は、私の父方の祖父が生まれた年です。

その祖父は、私の父が小学生の時に病死したそうなので、私は会ったことがありません。

 

昨日は124年ぶりの2月2日の節分でした。

幻の祖父のことを思いながら『とまとの呟き』を書こうと思います。

 

祖父は124歳。

私の父が生きていたら84歳。

父の話によれば、父は祖父が40歳の時に生まれた子どもだということですので、84+40=124歳。

やっぱり、祖父は124歳ですね。

 

祖父は49歳で病死したそうです。

祖父が闘病していたのは、太平洋戦争中から戦後の混乱期。

父が物心ついた頃には、自宅で寝たり起きたりの生活をしていて、病院でしっかりした治療は受けられなかったようです。

 

父は、祖父の死因は今でいう癌だろうといつも言っていました。

父は8人兄弟で、家庭の経済状態も悪かったようです。

太平洋戦争の時代から戦後の混乱期で、祖父は十分な診断や治療も受けられず死んでしまったのです。

 

実は祖父の写真が一枚だけあります。

私の実家にあるはずです。

祖父の名前は「タツゾウ」。

 

父によれば、かなり頭のいい人で調子のいい日は、父にいろいろなことを話し、教えてくれていたそうです。

 

父は、母と結婚してから、母方の姓を名乗っています。

ですから、タツゾウおじいちゃんと私の姓は違いますし、会うこともできませんでした。

私とタツゾウおじいちゃんを結ぶものは一枚の写真だけ。

 

タツゾウおじいちゃんは、若くて元気な頃、どんな人でどんな暮らしぶりだったのでしょう。

去年の9月に、父の故郷の函館に行き、父が生まれ育ったという松風町を歩きました。

タツゾウおじいちゃんも、毎日毎日、松風町を歩いていたのでしょうか。

 

祖父はおそらく癌に死す。

父も癌で命を落としました。

 

私は今日は病院に行く日です。

私も癌を経験し、未だ経過観察中の身です。

さて、完治のお墨付きを頂ける日が来るのか、私も再発して死ぬのか。

 

祖父、父、私で、三世代に渡る癌。

私で、癌三世。

 

三代目の私は完治を勝ち取り、この戦いに決着をつけようと思っています。

 

タツゾウおじいちゃんも、見守ってくれています。

 

昨日は124年ぶりの2月2日の節分でした。

節分は二十四節気の新年始まりの前日。

節分を境に、季節は春に向かいます。

 

124年前、私の祖父が誕生しました。

祖父が生まれて124年後の節分、滅多に巡り合えない節分の次の日、立春の日に私は大切な検査を受けます。

 

祖父が生まれた年と同じ日に節分を迎え、立春の日は大切な日。

文字通り、春を立てる日になることを願います。

 

立春を「立」「春」の順に書くのは、春が立つからなのではなく、春を立てるから「立春」の順で書くということだそうです。

大昔の中国の王様が、王の権限で「春を立てる」と宣言することで春を迎えたということから、漢文の語順のように「立春」になったそうです。

 

私も王様にあやかり、春を立てたいものです。

 

 

 

 

 

医療をうまく利用する

病院は具合が悪い時に行く場所ですが、私は具合が悪くなくても行っています。

 

ひとつは、自閉症スペクトラム障害が診断されたので、サポートを受けるため。

今後、障害者枠で働くにせよ、健常者の方と肩を並べて働くにせよ、何らかのケアやサポートが必要だということですので、頻繁ではなくても定期的に病院に通う必要があります。

 

自閉症スペクトラム障害のサポートを受けるために通う病院は、診断を受ける決め手になった心理検査を受けた精神科の病院です。

 

精神疾患を治療していたのは大学病院でしたが、次に通うのは民間の専門病院です。

大学病院での精神疾患の治療は既に終了していて、今後は治療と言うより、サポートを受けるために通院することになりそうです。

 

また、もうひとつ病院に通う理由があります。

私は何年も前に子宮頸がんを経験、子宮を全摘する手術を受けた後、一旦、状況は改善しましたが、その後、高度異形成と診断されました。

 

高度異形成になってしまうと、放置はできません。

再発のリスクも高いですから、こちらは大学病院に定期的に検査を受けに通ったり、一年に一度は入院して検査を受けています。

 

一時は放射線治療をしようかという話も出たのですが、その後状況が改善し、今のところ治療はせず、経過観察して検査のみです。

 

こうして、私は特別な治療はしていませんが、検査やサポートは必要です。

 

このような状況で病院に通っている方は、少なくないのではないでしょうか。

医学の発展と共に検査技術は進歩し、より早く小さな段階で心身に発生する問題がわかるようになりました。

 

私が経過観察している、子宮頸がん後の高度異形成は正にこういうことです。

昔であれば、黒か白か。

癌か問題なしか。

このような二者択一しか選択肢がないことが多かったのでしょうが、今はグレーゾーンで診断したり、それに応じてどうするべきかを考えられる時代になってきたと言えます。

 

癌の有効な治療方法は、早期発見と早期治療。

私の子宮頸がんが見つかった時も、かなりの早期でした。

子宮を全摘することで、根治に限りなく近づくことができる。

 

こうして子宮の全摘に踏み切った訳ですが、人間の体ですから予想や理論通りにはいきません。

でも、こうとも考えられるのではないでしょうか。

 

高度異形成の段階で定期的に検査し、先回りして状況を把握する。

予防医学的な発想ですね。

 

私の高度異形成も、大学病院で定期的に検査を受け経過を観察していますから、何かあればすぐに対処して頂けると、安心はしていませんが不安でもありません。

盤石といってもよい状態だと考えています。

 

先手必勝ですね。

検査結果が悪かったらどうしようとか、検査を受け続けなければならないことが辛いとかは、全く思いません。

 

治療以前の検査の段階で病院に通い、正しい方法で進むことが最大の防御であり、攻撃であると言えます。

 

私の元夫の伯父にあたる方は医師をしていて、もう30年近く前に、今後の医学は予防医学に移っていくべきであり、そのような役割が医療に期待されることであると話していました。

 

私も全く同感です。

当時の私はまだ若く、子宮頸がんも発症していませんでしたが、今の自分の状況は元夫の伯父、医師だった方の言葉通りになっていると考えます。

 

予防医学の役割が増え、医療とは予防の面も持つという形に移っていく。

そうであって欲しいと考えます。

 

私の父は癌で死にましたが、父の自慢はほとんど病気に罹らず頑健であることでした。

父はそんな自分を過信したのですね。

 

体調不良に気付いても我慢に我慢を重ねて、耐えきれなくなってようやく病院に駆け込みました。

診断は進行した癌。

 

手術しても悪いところを完全に切除するのは難しいかもという見立てで、手術を受けることになりました。

幸い、切除はできたのですが、その後、父は体力の低下が深刻で、仕事を続けられなくなってしまいました。

 

おそらく発達障害を抱えていたであろう父は、仕事が長続きせず職を転々とし、周囲の人ともうまく付き合えず苦労続きでしたから、早くに仕事を辞めたというのも結果的には間違いではなかったかも知れませんが、それでも健康と引き換えにすべきことではないですね。

 

その後、数年間静かに暮らし父は他界しました。

 

父のこの姿を教訓とし、私は定期的な健康診断やがん検診を欠かしません。

既に罹った子宮頸がん後の定期的な経過観察も欠かしません。

 

病気になってからではなく、先回りして小さな芽のうちに摘む。

先手必勝の発想で、予防のために医療を利用する。

元夫の伯父で医師だった方の予想通り、医療を利用することは治療と並び、予防のためになっていく。

 

これから益々、そういう時代になっていくのではないでしょうか。

 

私自身も、自閉症スペクトラム障害のサポートを受けるために精神科の病院に通い、また、癌の手術後の経過観察に努め、再発に備えた盤石の体制で迎え撃つ準備を怠らない。

 

こうして、医療をうまく利用したいものです。

 

 

おばさん体形

私はもう50代、すっかりおばさん体形になってしまいました。

50歳になる少し前から激太りして、若い頃より10kg以上太ってしまいました。

 

お腹が出て、すっかりおばさん体形になってしまいました。

ジムに通ったり、ヨガを習ったのですが全然痩せず。

 

一時期、ヨガを始めてすぐの頃、5kgくらい痩せて元に戻りかけたのですが、食事の制限が続かなかった。

 

ホットヨガでたっぷり汗をかいた後、ブロッコリーだけを食べていたら痩せたのですが、そういう食生活は続くものではありません。

 

それが正常です。

私は精神疾患を治療していたことがありました。

今は回復し元気に暮らしていますが、双極性障害摂食障害、アルコール依存の傾向もありました。

 

大学病院の閉鎖病棟に入院し、10年以上通院して治療しましたね。

入院中、治療の成果を確認し退院の目安となるのは、食事がとれるようになり健康的な体重にまで回復させること。

その目標の達成なくしては、退院できませんでした。

 

摂食障害は極端な拒食傾向で、食べられないのに食べなくてはならず、心身ともに厳しかったです。

 

その頃のことを振り返って見れば、美味しく食べられることは何より嬉しく楽しいことです。

だから、中年太りでおばさん体形になったことで、生きていることを実感しています。 

 

今は身も心もおばさんになりましたが、皆、そうであるように私にも若い頃はありました。

20代、30代の頃は結婚して専業主婦、子どもはおらず自由になる時間がたくさんあったので、スポーツクラブに通い、エアロビクスに夢中でした。

 

当時の私の体重は40kg台で、エアロビクスのレッスンはレオタードで参加していました。

今はレオタードでエアロビクスをしている方は、ほぼいませんよね。

でも、私がエアロビクスに夢中だった頃は、ハイレグのレオタードが全盛で、常連のメンバーさんは男性でもレオタードを着用の方がいました。(男性はハイレグではないですよ。オリンピックのレスリングのユニフォームみたいな感じでしたね)

 

エアロビクスはハマりました。

レオタードを買い集め、一時は100着くらい持っていました。

スポーツクラブでも、同じレオタードは着ない人とも言われていたくらいです。

いわゆる競技エアロも齧り、大会にも出場していました。

 

こんな調子でしたから、如何に体形を維持するかが、当時の私にとっては一番大切なことでした。 

 

30歳になってから、毎年人間ドックで検診を受けたり、乳癌の検診は専門の病院で受けるようになったのですが、乳癌の検診で何か異常があったらどうしようと、怯えにも似たような気持ちでいたものです。

 

乳癌に罹っても、状況によっては乳房の温存も可能な場合はありますが、それでも体形が崩れそう、体形が崩れればレオタードを着こなせなくなるかも知れない。

そう考えて、乳癌には怯えていました。

 

そこまでして、体形の維持に血眼になっていたのですが、今は全く思わなくなりました。

 

年齢を経るごとに心の動きが変わるのでしょう。

外見を無理して作ることより、健康を維持し、内面を豊かにすることに重きを置くように変化してきました。

 

特に、子宮頸がんで手術し子宮を全摘してからは、ますますその思いを強くしました。

今でも経過観察中ですので、検査して無事を確認できることが一番に大切なことになりました。

 

それでも、50歳の手前で急に太り始めた頃はジタバタしていました。

50歳手前ということで更年期障害ではないか、更年期になるとホルモンのバランスが崩れ、太ることもあるようだと聞いた私は、婦人科の病院に行き検査を受けることにしました。

 

太る原因を更年期のせいにしようとしていたんですね。

 

しかし、ホルモンの検査の結果は年齢相応とはいえ、更年期とも言えず、よって太る原因は更年期障害の影響ではないというものでした。

一応、婦人科の医師に太る原因を尋ねたところ、それは単なるカロリーオーバーであり、食べ過ぎであると呆気なく言われてしまいました。

 

あらら、そうは言われても美味しいものは止められない。

こうして、今日に至っています。

 

物事は何でもそうですが、中身の乏しい人間には何も表現できません。

この人はつまらない人だなあ、心が貧しく美しくないという印象しかない人間は、何をやってもパッとしない。

そういう方、存じ上げていますので。

 

どれだけ心が貧しいかと言えば、気に入らない人間の口を塞ぎ、発言権を奪うために吊し上げを行おうという仲間に囲まれ、徒党を組み、弱者を排斥する。

これが、心が豊かで美しい者がすることですか?

 

違いますね。

そのような根性では、何をしようが発展なし。

今後は先細りしか道がありません。

高みの見物といきましょう。

 

心が貧しく、相手を追いやることしか考えない者は、危機が迫っても文字通り高みの見物で、それは対岸の火事だと高を括る。

あらあら、あなたが一番、高みの見物で物笑いの種になるのですよ。

これ以上愚かなことはありません。

皮肉なものです。

 

さて、おばさん体形の私はこれ以上落ちることもなし。

落ちることがなければ、上昇することしかない。

 

見た目の美醜に囚われることなく、愚か者を退ける賢者として進みます。

 

心貧しき者に未来なし。

未来は心富む者にのみ与えられるのです。

 

 

一月最終日

一月最終日になりました。

新しい年が明けてから、今年は例年以上にいろいろなことがあり、忙しい一ヶ月間でした。

 

去年の年末、12月30日に一人でスーパーに買い物に行った母がスーパーで保護されたことから、私の身の回りは、風雲急を告げるといった感じで動き出しました。

 

母は今年で86歳。

腰に持病があり、ゆっくりしか歩けないのですが、辛うじて一人暮らしを続けています。

 

ところが、去年の12月30日、一人でスーパーに買い物に行き、腰が痛みだして動けなくなっていたところを、スーパーの方に保護されたのです。

弟が車で迎えに行き帰宅できましたが、その日を境に母の施設入所の準備が動き出しました。

 

2021年になり、先ずは母の施設入所の準備を始めようということになりました。

いつもお世話になっているケアマネージャーさんにも来て頂き、実家で母の施設入所について話し合いを初めて持ちました。

 

一度の話し合いで結論が出るはずもなく、今後も様々なことを相談したり、実際に施設を探したりと忙しくなりそうです。

 

2021年を迎え、動き出したことの筆頭は、母の施設入所の準備ですね。

 

それ以外にも、私自身の自閉症スペクトラム障害が正しく診断されたのも、2021年1月になってからのことでした。

専門の病院で検査を受けたのは、去年の12月だったのですが、結果が出たのは1月になってから。

 

医師が私の自閉症スペクトラム障害を疑ったのは、仕事に対して支障が出ていて、長続きしない、極端な時は1日行っただけで解雇されるということに依るものでした。

 

検査結果は、自閉症スペクトラム障害あり。

人とのコミュニケーションは、寧ろ得意ですが、能力の偏りが著しい、著し過ぎるということが診断の決め手ということでした。

私と同じくらい能力の偏りがある人間は、全人口の0.4%しかいないのだそうです。

かなり極端な傾向だということがわかりました。

 

この正確な診断を頂いたことで、今まで何故、仕事がうまくいかなかったのかが判明したので、この結果を踏まえ就職活動を始めます。

 

障害者枠で働くのか、サポートを受けながら健常者の方と肩を並べて働くのか。

これも、始まったばかりの課題です。

 

今日は、たまたま出かける用事があったので、自宅の近所にある「就労継続支援」の施設に寄って、詳しいお話を伺う機会がありました。

 

いよいよ2月になりますが、2月になればこうした就労の窓口で面談をしたりなど、具体的な行動開始です。

 

こうして、母の施設入所の準備や私自身の今後の就労のことについて、1月の一ヶ月の間に大きく事態が動きました。

 

まだ新年を迎えて一ヶ月しか経っていませんが、ずいぶん時間が経ったような感覚です。

いろいろなことがあると、時間は速く進むように感じそうですが、私は却って長く感じています。

 

こうして、家族のことや自身のことで大きく事態が動き始めた以外にも、この一ヶ月の間に変化したことがありました。

 

こちらのブログ『とまとの呟き』を始めたり、メインで書き続けていた方のブログをリニューアルしたり。

『とまとの呟き』は、サブの方のブログです。

こちらの方が私の本音で、思いついたことを綴っています。

 

メインの方は『小説・スカイゾーン』というタイトルで、完全なフィクションとして小説形式で書いているのですが、話が広がり過ぎて収拾がつかなくなってしまったので、整理することにしたのです。

毎回、この本文の上にリンクを貼っていますから、バナーの文字をクリックで飛べる設定にしています。

 

メインのブログ『小説・スカイゾーン』も、こちらのサブのブログ『とまとの呟き』も、同じくらいの割合で書き続けていきたいですね。

メインのブログとサブのブログ、お互いに行き来できるよう、それぞれにリンクを貼って続けるのも楽しいものです。

 

母の施設入所の準備を始め、自身の自閉症スペクトラム障害を正しく診断され、それを踏まえて今後は就職活動を始める。

そして、二つのブログを書き始めた。

 

なかなか内容の濃い一ヶ月間でした。

本当に、長かったような気がします。

 

毎年、新年、元日には実家の近くにある小さな神社に母と初詣に行くのですが、今年は感染防止のため、母は行かず私が一人でお参りしました。

 

おみくじは小吉でしたが、詳しい内容は大吉と言っていいくらい良いことが書いてあったので、残りの十一ヶ月、期待しています。

 

因みに母のおみくじは、私が神社で引き忘れてしまったので、ネットおみくじを引いてあげました。

それは、本当に大吉でしたね。

 

母はとても喜んでいました。

お互い、良い年にしたいものです。

 

新年が明けての一ヶ月間は、本当にいろいろなことがあり過ぎて長く感じました。

さあ、これからの十一ヶ月、何が待っているのでしょうか?

 

とてもとても楽しみでなりません。

 

 

 

DOGを逆さにするとGOD

犬と人間は友だちであり、家族です。

 

犬派か猫派かと言われれば、私は断然、犬派です。

 

私はほとんど記憶していませんが、私が生まれた頃に住んでいた家には既に犬がいたようです。

 

私が1歳頃に、その家の前で若かった父と撮った写真に、小さく映り込んでいる犬の姿があります。

 

父も犬が大好きでしたから、あの犬は父のお気に入りだったことでしょう。

 

父はその犬のことを「キュースケ」と呼んでいました。

父は、歴代飼った犬、どの犬にも「キュースケ」と名付けていました。

父によれば「キュースケ」の「キュー」は、坂本九さんから頂いていたものだったようです。

 

犬は英語では「DOG」これを逆にすると「GOD」=「神」ですね

 

犬は、かなり大昔から人間と共に暮らしてきました。

番犬として、家畜を見守る働き手として、家族として、パートナーとして。

 

犬と人間は大昔から共に生き、ある時は人間を守る神だった。

そこで、英語では「犬」のことを「GOD」を逆にした「DOG」と呼ぶようになったのかも知れません。

 

前述したように、私が生まれる前から父と母は犬と暮らしていたようですから、私はその犬に見守られ成長したのでしょう。

 

でも、その犬との別れは悲しいものでした。

 

私が3歳くらいの頃だったでしょうか、私たち一家は札幌から北海道の苫小牧市という街に引っ越すことになりました。

 

前にもお話ししたように、おそらく発達障害を抱えていたであろう父は、仕事が長続きしない人で、苫小牧市に仕事を求めて私たち一家は引っ越したのです。

 

引っ越し先の家では、犬が飼えなかったのでしょう。

それまで飼っていた犬は、男性3、4人の手で車に押し込められ、どこかに連れて行かれてしまいました。

 

その犬が、男性3,4人に車に押し込められる時に悲しそうに鳴いていたのは、まだ3歳くらいだった私も覚えています。

 

その引っ越しの日、私も何故か泣いていたんですよね。

何故、泣いていたかは覚えていませんが、犬との別れを儚んでいたのでしょうか。

引っ越し屋さんが荷物を運びながら、どうして泣いているの?と私に声をかけてくれていたのですが、私が泣き止むことはありませんでした。

犬の話とはあまり関係ないですが、私に声をかけてくれていた若かった引っ越し屋さんのお兄さんたちも、もうご高齢になったことでしょう。

 

苫小牧市に引っ越し、二軒目に住んだ家では犬を飼いました。

やはり父が犬好きで、ペットショップなどはほとんどない時代だったので、母が保健所に問い合わせて、子犬を譲って頂いていたように朧気に記憶しています。

 

苫小牧市には数年しか住んでいなかったのですが、家は三軒変わりました。

 

一軒目の家は、小さな一戸建てのような家でしたが、どちらかと言うと長屋ですね。

長屋ですから、犬は飼えなかったのでしょう。

 

二軒目の家は、父が当時働いていた職場からお借りしていたものでした。

一階部分が住居で、二階部分はその職場で使う物を置いておく倉庫になっていましたが、犬は飼える環境でした。

そこに2年ほど住んだでしょうか、その後は公営住宅、いわゆる団地に入居したので犬を手放すことになりました。

 

詳しいいきさつは忘れてしまったのですが、苫小牧市で住んだ二軒目の家では、短い期間で一匹ずつ、何匹か犬を飼っていたような記憶があります。

 

苫小牧市で二軒目に住んでいた家で、それぞれ飼っていた犬たちとは、2年ほどしか過ごすことができませんでした。

その犬たちがその後どうなったのかは、私は子どもだったので忘れてしまいましたが、2年ほどしか一緒にいないで手放すことは、現代では動物虐待になりかねない、とんでもないことです。

 

父が癌に罹り、最後に入院して治療の手立てがなくなり、万策尽きた時、私は父にこう言ったことがありました。

 

お父さんがもう治らないのは、あの時、自分の都合で犬を手放したりしたからだと。

 

札幌から苫小牧市に引っ越す時、苫小牧市で最後に住んだ団地に引っ越す時、父の意向で飼った犬を人間の都合で手放してしまった。

父が治療の手段を閉ざされ、死ぬしかなくなったのは、犬を粗末に扱った天罰だと私は父に言いました。

 

父は、かなりショックを受けたようです。

無口で自分の感情を表面に出さない人だったので、私に面と向かって反応はしませんでしたが、母の前では、犬に申し訳ないことをしたと悔いて反省していたようです。

母からそう聞きました。

 

父はそれからすぐに亡くなりましたが、犬のことは気にしていたことでしょう。

父に最後の最後に後悔させた犬の存在。

父は善良で穏やかな人でしたから、やはり犬を粗末に扱ってしまったことを、私に言われなくても悔いていたのではないでしょうか。

 

犬はこのように、人の心の中の深いところに入り込む神ですね。

父は、犬と暮らしていた頃は名前を「キュースケ」と呼んで可愛がっていましたから、本当は最後まで面倒を見たかったのではないかとも思います。

 

父と私と犬の物語はここまでです。

 

次は、元夫と私と犬の物語です。

 

私と元夫は、結婚してすぐに札幌市内に一戸建てを建てて住み始めました。

元夫と約束したのです。

家が完成したら、犬を飼おうと。

 

そこで迎えたのはゴールデンレトリバーの雄の子でした。

「ラッキー」と名付け、毎日にぎやかに過ごしました。

 

ラッキー以外に犬を飼う予定はなかったのですが、結果的に三匹の犬と暮らすことになりました。

 

私と元夫は、札幌にある山沿いのエリアに家を建てたのですが、札幌市内ながら自然が豊かで伸び伸びとした地域でした。

だからなのか、山に通じる林の中に犬を捨てていく不届き者もいました。

 

最初に迎えた子・ラッキーの後に迎えた子たちは、シーズーの雌とミニチュアダックスフンドの雌の子です。

 

この二匹の雌の子たちは、どちらも山に繋がる林に捨てられていました。

”長男”のラッキーが、朝、散歩させていた時に、こっちだこっちだと引っ張る方に行ってみると、シーズーの子が捨てられていました。

 

毛が伸び放題で、顔もよく見えなくなっていて、かなり衰弱していたので迷わず保護し、かかりつけの獣医さんに連れて行き診察を受けさせて、我が家で飼うことに決めました。

シーズーの子は衰弱していて、一週間の入院後、我が家の一員になりました。

 

その後、同じように保護したミニチュアダックスフンドの子も加え、わんこ三兄弟が揃っていた頃は、かなり賑やかでしたね。

 

捨てられていた子たちを保護して、獣医さんに連れて行き飼うことを決めると、診察してくれた獣医さんも安心して喜んでくれました。

この子たちは、助けてもらった恩を忘れることはないだろうと言って下さいました。

 

あれから、三匹の犬たちは順に死んで、私と元夫は離婚して別れ、みんな離れ離れになってしまいましたが、三匹の犬たちと過ごした日々は私の宝です。

 

三匹の犬たちは私の宝です。

 

シーズーの子が死んだ時、私と元夫は既に離婚し別々に暮らしていたのですが、シーズーの子が死んだと、元夫が連絡をくれました。

私は、その頃、精神疾患を治療しながら一人暮らしをしていたのですが、元夫に頼んで、死んだシーズーの子を連れてきてもらいました。

 

私がその子のお葬式を出しました。

ペット用の斎場に連れて行き、火葬して頂きその子の骨を拾ってあげました。

 

お坊様にお経をあげて頂く時に、お坊様がこう仰っていました。

別れた元夫と私のことを、死んだシーズーの子が再び引き合わせようと導いてくれたのだと。

 

私もそう考えました。

元夫と復縁することはなかったのですが、もう一度会えたのは死んだシーズーの子の導きだったのでしょう。

 

もう一つ、犬にまつわる不思議な話があります。

 

”長男犬”のラッキーが死んで間もない頃、同じゴールデンレトリバーの雄の子との出会いがあったのです。

 

その子の名前は「ジャック」。

ジャックの元の飼い主さんが、回復不可能な病状となり、泣く泣く手放さなければならなくなったということでした。

 

私たち夫婦が住んでいた家のお隣のご夫婦から頂いたお話だったのですが、そのご夫婦のお宅には、既にゴールデンレトリバーの雄の子がいて、大型犬の雄同士を同じ家の中で飼う訳にはいかず、私たち夫婦が飼えないかと相談されたのです。

 

当時、私たち夫婦のところに残っていたのは、シーズーの雌の子とミニチュアダックスフンドの雌の子。

小型犬の雌の子となら、ジャックは一緒に暮らせます。

私たち夫婦は、ジャックを引き取ることにしました。

 

それまでいたラッキーを亡くしたばかりだったので、ジャックはラッキーの生まれ変わりだったのでしょう。

ジャックこそ「神」。

 

私と元夫が離婚して、10年以上経ちましたから、ジャックももう天に召されたことでしょう。

でも、元の飼い主さんと生き別れるようにして、私たち夫婦の子どもになってくれたジャックは、私たち夫婦のことも忘れないでいてくれることでしょう。

 

物心つく前から、私は犬と暮らしてきました。

 

札幌から苫小牧市に引っ越す時に、どこかへ連れて行かれてしまった「キュースケ」。

引っ越し先の苫小牧市で、2年ほど一緒に過ごした「キュースケたち」。

 

父はその「キュースケたち」を、自分の都合で手放したことを真剣に悔いて、反省していました。

善良な父を反省させた「キュースケたち」。

 

元夫と暮らした日々を共に過ごした三匹の犬たち。

生まれ変わりのように現れたジャック。

 

どの子も可愛かった。

可愛がったぶん、昨日お話しした、生まれてこれなかった私の兄や姉のように、これからも私を守る神なのでしょう。

 

犬は英語で「DOG」逆さにすれば「GOD」。

私にとっての犬は「神」なのです。

障害を持ち、地方で暮らすということ

今日は、発達障害などの精神的な問題を抱える人の就業サポートのための福祉の窓口に、電話で問い合わせをしました。

 

何箇所かでアドバイスを頂き、徐々に絞り込み、私にできることを見つけていきたいです。

いよいよ始動し始めたという感じですね。

 

今のところ、私は北海道に生き北海道で死のうと思っています。

札幌出身の私は、人生の90%程度を札幌で過ごしてきました。

 

幼い頃、数年間、北海道の苫小牧市という街に住みましたが、それ以外は札幌で過ごしました。

苫小牧に住んでいたのは、父が仕事が長続きしない人で、一時期苫小牧で働いていたからです。

 

人様には恥ずかしいので、父の仕事の都合と言って「転勤ですか?」と聞かれれば「そうです」と答えていますが、違います。

父は転勤が必要なかっこいい仕事には就いていませんでした。

父は穏やかな性格で、頭もよかったのですが、周りで一緒に働く方々とうまく付き合うことができなかったのです。

 

他にも、フルタイムで働いていた母に毎朝、出汁から丁寧にとった味噌汁を作ることを強要したり、思い込みで私に大学進学だけを押し付けたり。

 

おそらく、父は発達障害を抱えていたのだと思います。

性格は穏やかでしたが、相手の気持ちと自分の考えをすり寄せることができない人でした。

古い世代の人間ですから、診断もサポートも受けられずに死んでいきました。

 

このような父でしたから、仕事が長続きせず職場を転々としていたので、幼い頃の一時期、私は苫小牧市に住んでいたのです。

 

苫小牧市以外は、私は札幌で成長し大人になりました。

大学も北海道大学に進学し、実家から通いましたし。

 

印度哲学を本格的に学べるということが、大学選びで最も優先したことでした。

札幌以外でも国公立で印度哲学を学べる大学があり、アルバイトをしながら進学しようかという話も出たのですが、学生の本分は学業であり、不確実なアルバイトを当てにするものではない。

 

こういった理由で、北海道大学一択。

滑り止めは受験しませんでした。

 

私が大学受験した頃は共通一次試験の時代であり、国公立大学は一校しか受験できませんでした。

実家の経済的な問題で、私立大学に進むという選択肢はない。

以上のような事情で、北海道大学しか受験しませんでした。

 

つまり、滑り止めは受験できない。

一発勝負で、不合格であれば浪人生活。

 

このように追い込まれた状況の方が、私は実力を発揮できました。

退路を断った方が、私は実力を存分に発揮できたのです。

 

北海道大学に進学して、本当によかった。

キャンパスが広く、校風は素朴で堅実。

 

今の現役北大生は、お洒落な学生さんが増えたのではないかと思うのですが、私が通っていた当時は、どちらかと言えば野暮ったい学生が多かった印象です。

 

女子学生はブスとも言われていましたね。

実際には美人もいたのですが、私が通っていた頃の北海道大学の女子学生の比率は、全学部を通して十数%程度で、四年制大学に進学する女子学生の数も今より少ない時代でした。

 

道外出身の同級生の中には、大学時代という貴重な若い時期を北海道という浪漫に満ち溢れた土地で暮らしてみたいからという理由で、北海道大学を志望したという人もいました。

 

北海道は今でも、47都道府県の魅力度ランキングで堂々の1位です。

食べ物が美味しい、広々、伸び伸びしている、季節の移り変わりがはっきりしている。

魅力がいっぱいの浪漫チックな土地です。

道外出身の北海道大学の同級生たちの中に、この浪漫を進学先を決める要素に入れていた学生もいたことは、全くその通りであると頷けます。

 

 

大学は北海道大学に進学し、札幌で生まれ育った私は、とにかく北海道志向です。

 

大学を卒業すると、多くの同級生が東京を中心とした大企業に就職を決めて進んで行きましたが、私は大学卒業後に就職した会社を9カ月で辞め、その後は札幌でフリーターをしていました。

 

元夫と結婚生活を送っていたのも札幌です。

 

何と言っても、地元は落ち着きます。

 

実は、50日間だけ東京で暮らしたことがありますが、やはり私は北海道、札幌で生きる気持ちしかない。

そう考えて、50日で札幌に帰ってきました。

 

50日間の東京生活では、日雇いの仕事をしながらカプセルホテルで眠り、最後の10日間だけ契約したアパートで暮らしましたが、やっぱり私は北海道で暮らす気持ちしかない。

違約金を払ってアパートを解約し、札幌に帰ってきました。

 

思えば、このような行動に出たことも、自閉症スペクトラム障害の影響ではないかとも考えます。

東京で50日間だけ暮らした頃は、そのことには全く気付いていませんでした。

 

でも、自閉症スペクトラム障害に気付かなくても、私は北海道に帰ってきて札幌で暮らしたかったですね。

 

大学を卒業して就職する時も、北海道志向でした。

東京、何するものぞという気概に満ち溢れていました。

ですから、就職した会社を9カ月で退職し、その後は札幌でフリーターをしたことの方が、私の本領発揮と言えるのです。

 

今の私は、自閉症スペクトラム障害が正しく診断され、サポートを受けながら働くのか、障害者枠で働くのか、働く場所を探している状態です。

ただ、言えることは今後も札幌で働き、生活していこうということには何の変りもないということです。

 

テレビなどを見ていると、東京でやりがいのある仕事に就き、能力を存分に発揮している優秀な方を多く見かけます。

しかし、私はそちらに行くべき人間ではない。

 

勉強は大好きで大得意ですが、それは自閉症スペクトラム障害がある私の、著しい能力の偏りによるものです。

勉強ができても一般的な仕事が苦手な私は、都会でバリバリ働く人間ではないのです。

 

人によっては、こういう状況を嘆かわしく感じ、行き詰まる方もいるかも知れませんが、私は寧ろお誂え向きだと考えています。

 

北海道に生まれ、北海道で生活し、北海道で死ぬことを何よりも望んでいる。

勉強は得意でも、一般的な仕事がほぼできない。

 

私の願いと能力、障害(個性)を全て考慮すると、障害を持ち地方で暮らすことが、私に一番相応しいことなのです。

 

コロナウィルスの問題が未だ収束しませんが、毎日伝えられる東京都の感染者数。

東京一極集中の弊害が見えてきます。

 

ニュース番組などで見る東京都の映像は、どこに行っても人人人人人。

人口密度が高く、密集しているから感染が収束しないという面も否定できないのではないでしょうか。

もう少し、人と人が分散しなければ、事態の収束に近付くことは困難なのではないでしょうか。

 

東京一極集中の弊害は他にもありますが、感染収束の妨げにもなりかねない密集は忌々しきことだと考えます。

 

生まれ育った土地で自分らしく暮らし、相応しい生活をすることが何よりの幸せです。