昨日、元旦那さんと話したんです

昨日、離婚した元夫と電話で話しました。

用件は、結婚していた当時、夫婦二人の共有名義だった持ち家のことです。

 

私は今、生活保護の申請手続きの準備をしているので、共有名義だった持ち家の名義から私が外れているかを確認しておきたかったのです。

 

生活保護は、資産があると受給が難しいですよね。

そこで、結婚していた当時に共有名義だった持ち家の名義が元夫だけのものに変更されているか、確認したいと思い電話で連絡してみたのです。

 

確認してみた結果、持ち家は今は元夫だけの名義に変更されているとのことでした。

 

離婚してもう何年も経っているので、名義の変更はされているだろうとは思っていましたが、何事も確認することが大切です。

 

ほんの2、3分、業務連絡のような会話でしたが、元夫は変わりなく元気そうでしたね。

 

携帯番号を忘れてしまったので、自宅の固定電話に連絡したのですが、まだ通じたことに少し驚きました。

今はスマホや携帯電話だけを持ち、自宅には固定電話を持たない人が増えましたが、元夫は未だに固定電話を解約せずにいたようです。

 

元夫とは互いに嫌いになって別れた訳ではなく、発展的なコンビ解消として別れたこともあり、かなり久しぶりに話しましたが、普通に会話は成り立ちました。

知り合って30数年、変わることなく元気そうで何よりでした。

 

元夫と私が知り合ったのは、もう30数年前のこと。

互いに大学生で二人とも自宅から大学に通っていたので、何かと制約はありましたが、付き合いは続き結婚もできました。

 

まだネットもスマホもなかった時代。

互いに親元から通っていたので、連絡を取り合うのも苦労したものです。

 

若い頃の私は突っ張っていて、両親に元夫との交際を知られたくはなかったので、連絡を取り合うのも公衆電話などからでした。

私は北海道大学の卒業生ですが、元夫は別の大学に通っていたので、連絡を取り合うのに本当に苦労しました。

 

ネットもスマホもない時代、人と人とのコミュニケーションはどんなものだったか、忘れてしまっている部分もありますよね。

 

今は地下鉄などに乗っていても、ほとんどの乗客がスマホとにらめっこしています。

スマホがない時代、人々は地下鉄で移動中、何をしていたか思い返してみました。

 

新聞を読んだり文庫本を読むか、居眠りをするか。

このような感じではなかったでしょうか。

 

そんな時代から、元夫と付き合い、今でも普通に会話できることがなんだか不思議な感じがしましたね。

 

電話で2、3分話しただけだったので、元夫が今どんな生活をしているかはわかりません。

今も同じ勤務先に勤めているのか。

外見はどんな風に変化したのか。

 

再婚したのは知っていますが、意外とまた離婚しているかも知れませんし、白髪が増えているのかも知れません。

 

元夫は自分の携帯番号を教えてくれました。

私の方から連絡することはないと思いますが、一旦切れた繋がりがまた復活したようで、悪い気はしません。

 

ほんの2、3分の一本の電話で少しだけ、ネットもスマホもない時代からの繋がりを確かめることができました。

今は袂を分かち別々の道を歩んでいますが、元夫にはこれからも元気でいて欲しいですね。

 

大学生の頃から、20代、30代の若くて充実していた頃を共に過ごした相手には、ずっと健やかでいてもらいたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

病院大好き

今日は、精神の病院の通院日でした。

今通院している病院は、自閉症スペクトラム障害を診断してくれた病院であり、一旦回復していたものの悪化の兆しがある双極性障害や、強迫性障害の治療を受けています。

 

また、生活保護の申請を準備しているので、病院に常駐しているケースワーカーさんに書類の書き方を確認して頂きました。

 

以前は北海道大学病院の精神神経科で治療を受けていたのですが、入院治療、通院治療を経てかなり回復したのでそこでの治療は一旦終了しました。

 

しかし、その後、検査を受けてわかった自閉症スペクトラム障害のサポートを受けたり、また悪化の兆しがある双極性障害などの治療を受けるために、札幌の民間の病院に通うようになりました。

札幌の中でも老舗に入るそこそこの規模の病院ですね。

 

私はこの病院との相性がいいようです。

治療の方針や自閉症スペクトラム障害との付き合い方、生活保護の申請など福祉の利用についても、主治医をはじめとするスタッフが丁寧に対応してくれています。

 

私は病院が好きなんです。

治療もそうですが、検査を積極的に受けるのが好きですね。

子宮頸がんに罹ったこともありますが、定期的な検診で見つかり、早期発見早期治療で今もピンピンして生きています。

 

病院には積極的に行った方がいいですよね。

子宮頸がんに罹っても、命拾いして元気に過ごせていることで、そのことを実感します。

 

ただ、早期発見で治療できたとは言っても、癌であることには変わりがないので、これからも何年間かは経過観察は続きます。

 

無病息災というより万病息災といったところでしょうか。

何か気になるものを抱えているから、用心して検査を受けたり経過を観察してもらえます。

 

人間はどんなに健康自慢な人でも、必ず病気になります。

それが原因で死ぬこともあります。

 

無病息災で健康を過信するのではなく、万病息災で自分の健康を常に確認する方が、正に健全な生き方ができるのではないでしょうか。

 

今の私は、精神の病院や子宮頸がんの経過観察で定期的に病院に通い、病院詣でをしているようなものです。

 

健康を過信して病院に行かないのは、自慢でも何でもありません。

病院に行かないことを自慢することは、自分の健康管理ができていないと宣伝しているようなものですね。

 

できれば病気にはなりたくありませんが、生身の人間である以上、病気になることは避けられません。

そうであれば、病院との付き合いを楽しんだ方がいいです。

 

私は病院が好きです。

もしかしたら、病院が職場になっていたかも知れませんし。

 

幼い頃から精神病気質だった私は、精神科医を目指しました。

高校に入学して志望したのは、医学部でした。

高校生の途中までは医学部を目指して勉強していましたね。

 

それが、今では医師として働くのではなく、患者としてお世話になる方に回ってしまいました。

 

医学部に行かなかったのは、進路の希望を変更したからなのです。

 

私は北海道大学の卒業生ですが、文学部でインド哲学という学問を学んでいました。

このインド哲学を学ぶために、医学部には進みませんでした。

 

しかし、実は医学とインド哲学には共通点のようなものがあります。

 

インド哲学の中に登場する「生老病死」という教えがあるのですが、これは、人間は生まれることも苦、年老いることも苦、病気になるのも苦、最後に死ぬことも苦であり、これらの苦からは逃れられないとする考え方です。

つまり、生まれたからには、年老いない人間はいない、病気にならない人間はいない、死なない人間はいないということであり、そういう意味では全ての人間は平等であると考えられます。

 

医学においても、全ての人間は病気になるということを前提に、様々な治療法が研究され、人間は全員が病気になり得る者として、或いは病気に罹った者として平等に扱われます。

 

全ての人間は平等に病気になり得る存在であるという考え方が、インド哲学と医学に共通する人間の捉え方です。

 

この共通項に気付けたので、医学部に行かず文学部に進み、インド哲学を学んだことに悔いはありません。

 

大学で学んでいた頃、まだ若くて健康だった頃から私自身も変わりました。

癌を経験したり、精神疾患を治療しながら、生まれながらの障害・自閉症スペクトラム障害が診断されたり。

 

こうして書いていると、病気がちな印象に取られるかも知れませんが、決してそのようなことはありません。

 

前述したように、無病息災ではなく万病息災という発想で、病気になることは当たり前と思えば、気が楽です。

私もごく普通の生身の人間ですから、病気になって当たり前なのです。

 

病気になるのは当たり前。

特段嘆くことではない。

私はそう考えています。

 

このことは、文学部でインド哲学を学んだから実感できることであり、医学部に進んでいたら気付けなかったことだったかも知れません。

 

人間は生きていれば、病気になることからは逃れられない。

病気になるからこそ人間である。

うまく病気と付き合って生きるからこそ、人間である。

 

そういう考え方が根底にあるので、私は病院が好きなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家庭教師の思い出

大学生の頃、家庭教師のアルバイトをしていました。

私は北海道大学の卒業生ですが、北海道大学の学生のアルバイトで多いのが家庭教師のお仕事でしたね。

 

北海道にいれば、北海道大学が最高偏差値なせいか、家庭教師の派遣をする会社に登録すると、割とすぐに仕事は決まりました。

 

私は記憶力がいいです。

教えていた生徒さんは、ほぼ全員、顔も名前も未だに覚えています。

あれから30数年は経っているので、あの頃教えていた生徒さんも大人になったことでしょう。

そして、今頃は自分の子供の教育のことで一生懸命なことでしょう。

 

私が家庭教師を始めた動機は、拘束が短時間で時給がよく、学業と両立しやすかったことですね。

多くの学生が、このような感じだったように記憶しています。

 

手前味噌ですが、私は家庭教師として評判が良く、派遣する会社から次々と仕事を紹介されていて、学業との兼ね合いでお断りしていた仕事もあったくらいです。

 

私が家庭教師としてかなり評判が良かったので、弟が北海道大学に入学後、同じ会社に登録しようと面接を受けた時に、”とまと先生の弟さんですか!”と対応して下さった会社の方に喜ばれたりもしていましたね。

弟は、かなり恥ずかしかった、姉ちゃん、何やってんの?と苦笑いしていたものです。

 

私はなぜ家庭教師として評判が良かったのでしょう?

 

性格が明朗で礼儀正しく、コミュニケーションが得意なので教え方が上手と、ご家庭から評価して頂いていました。

卒業したのは文学部ですが、元は医学部志望で数学や理科も力を入れて勉強していた時期もあったので、高校生や理系の生徒も指導が可能だったことも、良い評価を頂ける理由だったようです。

 

家庭教師の仕事はもちろん勉強を正しく教えることが求められるのですが、生徒さんと円滑なコミュニケーションを取ることも求められます。

生徒さんは真面目で、初対面の時はかなり緊張していますから、気持ちを上手く解してあげて勉強がわかるようになると、楽しいのだということを伝える必要がありました。

 

所謂、コミュ障という方がいますが、私は完全にこの逆です。

50代になった今も、私は人当たりがよく話好きです。

 

大学生の頃からこのような気質だった私は、生徒さんの緊張を解しながら、肝心の勉強についても的確に伝えることができていたのでしょう。

 

勉強ができることと、それを相手が理解できるように伝えることは違います。

これが苦手な同級生もいて、家庭教師のアルバイトを選ばない学生もいましたね。

 

コミュニケーションが得意で人当たりが良く、理系の科目も教えることができる私は、途切れることなくお仕事を頂くことができ、大学生活を送る中で多くの生徒さんと知り合うことができました。

 

前述したように、今でもほとんどの生徒さんのことをよく覚えています。

私が大学生の頃、中高生でしたから、生徒さんたちももう40代、50代でしょう。

そうなると、かつて私が教えに行っていたように、自分の子供のために勉強を教えに来てくれる家庭教師を迎えているのでしょうか。

 

教育は未来への投資であり財産です。

勉強はできないより、できた方がいいですよね。

 

知らないことを知り、できなかったことができるようになる。

解けなかった問題が解けるようになると楽しいです。

 

私はそんな風に学生の頃は過ごしていましたから、勉強ができるようになる楽しさを伝えるという点では、家庭教師のアルバイトは天職のようなものでした。

 

しかし、私自身は家庭教師を利用したことはありません。

今は家庭教師を派遣する会社も増え、料金もそう高くない会社も出てきたようですが、私が中学、高校生の頃は家庭教師はまだまだ高価なものというイメージでした。

 

ですから、私は大学合格までほぼ独学です。

塾にも行ったことがありません。

高校三年生の時に、北海道大学の英語対策の講座を受講するため、予備校に通ったことがある程度です。

 

ほぼ独学で勉強を進めてきたので、大学生になって家庭教師をする時も、勉強そのものに加えて、勉強のやり方や勉強する上での計画の立て方、時間の使い方といったような勉強の方法論のようなものも、生徒さんに伝えることができましたね。

 

勉強とは、教科のある範囲をこなすだけではなく、その根本にある勉強のやり方、計画の立て方、時間の使い方を学ぶことです。

 

生徒さんによく尋ねられたのは、大人になって勉強は何の役に立つのかということでしたが、その答えは、勉強そのものよりも、勉強を進める上での計画の立て方や時間の使い方を学ぶことが大切であるということでした。

 

実際、社会に出て要求されるのは、このように時間をうまく使うことであるとか、物事を順序立てて片付けていく能力です。

 

この能力のトレーニングが勉強である。

そう考えていた私は、生徒さんにもそのことを伝えていました。

 

そのように考えると、勉強は楽しいです。

勉強の楽しさを生徒さんに伝えるのが楽しかったですね。

 

私は今でも勉強が好きです。

知らないことは、まだまだたくさんありますから、学んでも学んでも、まだ学び足りない気がします。

 

知らなかったことを知ることは、本当に楽しいものです。

 

 

 

 

 

ちゃんと働いたことはないに等しいけれど

今日は何軒か銀行を回っていました。

もうすぐ生活保護を申請するのですが、保護を受けて生活してらっしゃる方、或いは保護を受けていたことがある方は、おわかりかと思います。

生活保護を申請する時は資産などの審査があり、保護を受けようとする者の銀行口座に調査が入る場合があります。

 

私も生活保護を頂いて生活していたことがあるので、そのあたりの事情は心得ています。

生活保護は、精神疾患の回復に伴い働くことができるようになったので、一旦卒業したのですが、今回また申請することになりそうです。

 

回復傾向にあった双極性障害が悪化しつつあり、強迫性障害の調子が悪い日も目立ってきました。

それに加えて、自閉症スペクトラム障害という障害があることがわかり、元気に働きに行けていても、十分に能力を発揮できず解雇されたりもしてきたので、この障害を抱えて働くのは困難なようです。

 

主治医も、無理せず障害者枠での就労を目指してはどうかと勧めてくれますし、仕事を焦って探すよりも、じっくり腰を据えて仕事探しをした方が良いとアドバイスしてくれています。

 

じっくり仕事を探すとなれば、生活費が底をつき路頭に迷う恐れがありますから、この点においても主治医は、生活の基盤を安定させて仕事探しができるようにと、生活保護の申請についても賛成し、応援してくれています。

 

このような状況にあり、生活保護の申請が現実味を帯びてきたので、自分の銀行口座を確認しておこうと考え、心当たりのある銀行に古い通帳を持って出かけました。

 

確認してみると、ほとんどの口座は解約済みで、一つだけ休眠状態だとわかりました。

 

前置きが長くなりましたが、滅多に外出しない毎日を過ごしている私にとって、対応してくれた銀行員の方のような、堅いお仕事に就いている方と接点を持つことは、ある意味新鮮でした。

 

私は去年の9月に、それまで就いていた仕事を辞めて休業に入りました。

この休業中に、自閉症スペクトラム障害が診断されたり、双極性障害が悪化してきたりと、思いがけない方向に向かっています。

再び生活保護を申請するというのも、想定外でした。

 

今はまだ仕事を休業中ですが、今後は仕事に就けたとしても障害者枠での就労になりそうです。

 

思えば、私はちゃんと働いたことがほとんどありません。

 

大学を卒業して民間企業に就職したのですが、9ヶ月で退職しています。

退職の理由は、入社前に聞いていた仕事内容と実際に現場に出てする仕事の内容が違っていたからです。

 

新入社員の退職あるあるな話で、今の私だったらそんなことでは退職しないと思うのですが、その頃は20代でまだ若かったので、辞めて再スタートするなら早い方がいいと考えたんですよね。

 

その会社を退職してからは、フリーターをしていました。

社会人講師として家庭教師をしたり、ファミレスでホール係をしたりと、気ままに暮らしていました。

 

この気ままさが、私が求めていたものだったのです。

 

北海道大学の同級生の多くは有名企業に就職したり、公務員になって安定した生活を選ぶ人がほとんどでしたが、フリーターで気楽にやる方が私の性分に合っていました。

 

ただ、フリーターをしている間に精神疾患が悪化し、当時付き合っていた元夫が救いの手を差し伸べてくれたので、結婚して専業主婦になりましたね。

 

せっかく知名度のある大学、北海道大学を卒業しているのに、就職した会社はすぐに辞め、ふらふらとフリーターをして、専業主婦というお気楽な道に進みましたが、これこそが私の生きる道だったのです。

 

会社員よりも、フリーターや専業主婦の方が私の天職だと実感しましたね。

 

その後、元夫とは離婚しましたが、その頃精神疾患を治療していたこともあり、当時の主治医が生活保護の申請を勧めてくれました。

 

生活保護で生活の基盤を強固なものにして受けた治療が功を奏し、少しずつ自立を目指せるようになり、まずは時短勤務、パートタイム的な働き方ができる派遣社員に挑戦してみたのですが、働く時間や日数が柔軟に選べる派遣社員も性に合っていました。

 

このように、フルタイムのしっかりした仕事に就いたことは、ほとんどない私ですが、私はそういう風にしか生きられない人間なのでしょう。

 

北海道大学のような知名度のある大学を卒業していれば、女子でも男子と肩を並べて働ける道は開かれますが、私はそういう道は選んでこなかったのです。

自閉症スペクトラム障害が診断されたのは、今年に入ってからですが、自分の障害に気付かなかった頃から、私は自分に合った道を嗅ぎ分けて選んでいたのでしょう。

 

いろいろな人生がありますから、知名度のある大学を出て、フリーターになろうが専業主婦になろうがいいではありませんか。

 

私は自分の嗅覚を頼りに、向かうべき匂いがする方向に向かって生きてきて、幸せ者だと考えています。

 

今日、対応してくれた銀行員の方のように、堅い仕事をして生きる方とは対極にある生き方をしてきた私ですが、あの時就職した会社を辞めなかったらとか、フリーターになんてならなかったらとか、専業主婦にならなかったらとか、離婚しなかったらとか、そんな風に考えたことは一度もありません。

 

これまでの人生で後悔したことはありません。

それは、誰かから命じられてしたことではなく、自分自身が行きたい方向に行こうと選んで進んだから、そう考えられるのだと思っています。

 

これからも、私は自分の嗅覚を頼りに、気ままに進んでいくことでしょう。

生まれながらの自閉症スペクトラム障害が診断されたことは、私のこの生き方を後押ししてくれるものです。

 

障害があるから気ままなのか、気ままに生きてきたから障害が気にならなかったのか。

おそらく、後者だと思います。

 

もう50代ですが、己を正しく知ることで、これからも進むべき方向を見誤ることなく進んで行くのです。

 

ツッパリとまと

私は天邪鬼です。

他の人と違うことをするのが大好きです。

 

若い頃の私は、とにかく突っ張っていて、成人式の晴れ着の写真も撮っていませんし、大学の卒業式も定番の袴スタイルではなくスーツを着て出席しました。

 

成人式は嫌でしたねえ。

ウザいことこの上なかったです。

 

公式な成人式にはもちろん出席しませんでしたし、成人の日は特に何もせず普段通り過ごしていました。

 

成人式を拒否した理由は、二十歳が人生のピークであるかのように盛大に祝い、ここが人生の美しさのピークと言わんばかりに、着飾って晴れ着で記念撮影することに違和感や嫌悪感を感じていたからです。

 

当時の私が考えていたことは、こういうことでした。

 

二十歳が人生のピークではないし、殊更祝う意味を見出せない。

皆が揃って着飾り、集まって騒ぐ意味がわからない。

揃いも揃って同じ方向を向き、めでたい、めでたいとヘラヘラ笑う理由がわからない。

 

そう考えて、成人式は一切のことを拒否していました。

 

私は天邪鬼なのです。

人が右を向けば左を向き、集まって騒げばその群れを離れます。

物事に対しては、斜に構えて捉えることが多いです。

 

私は群れが嫌いなんです。

50代になった今もそうですし、ますます磨きがかかっています。

若い頃からこうでした。

 

どうして私はこうなのか?

若い頃は理由もわからず、時には衝突したりしていました。

 

最近になって考えられるようになったことですが、どうやら私の生まれながらの気質や障害に、その理由があるようです。

 

このブログでも触れてきましたが、私には生まれながらの障害、自閉症スペクトラム障害があります。

自閉症スペクトラム障害があると、空気が読めないであるとか、こだわりが強く思ったことそのままに行動してしまうであるとか、そういう傾向があるようですが、私も自分で思い当たるふしはありますね。

 

両親が楽しみにしていたであろう成人式や晴れ着での記念撮影を、真正面から拒否したり、皆が右に行こうとする時に私だけは左に向かったり。

 

自分の思うまま、思いついたらそのまま行動してしまうことが多く、若い頃は困ることはありませんでしたが、今の年齢くらいになって困ることが出てきました。

 

一般的な人と一緒に仕事ができない。

業務上の指示を受けても、指示の意味自体がわからない。

よって、一般的な仕事がこなせない。

 

今のところ、私は無職です。

 

では、私はダメ人間なのでしょうか。

天邪鬼で、人と同じことができない。

業務上の指示を受けても、指示通りに動くことが難しい。

その結果、仕事を辞めなければならなくなることもあった。

 

ダメ人間ではなくても、困ったちゃんとは言えると思います。

 

では、困ったちゃんではいけないのでしょうか。

 

私はそうは思いません。

 

人間は大なり小なり、困ったちゃんなところがあります。

 

私の困ったちゃん度数は100点満点に近いとは思いますが、だからと言って卑屈になったりはしません。

 

私の天邪鬼なところや困ったちゃんなところは、生まれながらの障害が影響しているのかも知れません。

であればこそ、ますます卑屈になったり、自分を過小評価したりはしません。

 

人間は一人一人違っていて、皆が困ったちゃんなところがあるはずです。

それは程度の問題でしかありません。

 

様々な意味で、人と違っていることはいいことなのです。

天邪鬼でも、突っ張っていても、斜に構えていても、人と違っていることはいいことなのです。

 

例えば、同じ生物が100匹いるとします。

そこに、違う生物が1匹だけ混ざっているとします。

100匹はそれまでの環境に適応し、残りの1匹はマイノリティとして隅に追いやられているとします。

 

ところが、ある日環境が激変するとします。

それまでの環境には適応できていた100匹は、環境の激変についていけず滅びてしまいます。

しかし、違う性質を持った残りの1匹は激変した環境に適応し、生き残ります。

 

このように、皆が同じ方向を向き同じような性質であれば、一気に滅亡してしまいます。

そんな時に生き残るのは、他の多くのものとは異なる方向を向き、性質も異なるものではないでしょうか。

 

私はこの100匹の群れの中に属するのではなく、異なる性質を持った1匹でありたいのです。

 

孤独なんかはクソ喰らえですよ。

一人ぼっち上等。

 

こうしてツッパって生きて、自分の弱点であるかのような障害も強みに変えていきたいですね。

 

 

 

Come on!ALFEE!!たかみーお誕生日スペシャルは三人揃って200歳!!

アル中の皆様、お疲れさまでした。

今日は一昨日に続き、我らがたかみーこと、高見沢俊彦様のお誕生日スペシャルでしたね。

そして、三人揃って200歳の大台に乗りました。

実におめでたい!!

 

そして、肝心の歌ですが、やはり一昨日のようにかなりユルい展開でした。

せっかくの(?)たかみーのメタルな歌は二曲だけ。

それ以外は、スナック・アルフィーの方が熱がこもっていたようです。

 

ひたすら続く、メンバーのまったりしたトーク

この雰囲気、何かに似ていると思っていましたが、そうです。あれです。

 

Come on!ALFEE!!のユルいトークは、1984年に放送されていた「アルフィーオールナイトニッポン」に通じるものがあると思いませんか?

当時、リアルタイムで聴いていたアル中の皆様、そう思いませんか?

 

私は当時10代で学生でした。

1984年に放送された「アルフィーオールナイトニッポン

女系家族のコーナー”や”女のうずき”など、いつの間にかできたコーナーで私は真夜中にも関わらず、大爆笑していたものです。

 

女系家族のコーナー”や”女のうずき”のコーナー、覚えてらっしゃる方はいますでしょうか?

それから、番組中のコーナーではありませんでしたが、コマーシャルに行く前に、たかみーが、あの高音で『勉強しろー!!』と絶叫していたのも、覚えてらっしゃる方はいますでしょうか?

 

Come on!ALFEE!!は、なんだか1984年に放送されていた「アルフィーオールナイトニッポン」と同じような匂いがしますね。

 

今日のCome on!ALFEE!!の中でメンバーも言っていましたが、ラジオと電話の時代もありました。

でも、現代の最先端・配信でもTHE ALFEEの本質は何も変わりません。

 

深夜放送のラジオとハガキの時代を経て、現代ではインターネットを使った配信とチャットの時代。

 

方法は変わっても、THE ALFEEの本質は何も変わりません。

 

そんなことから、今日のユルい進行ぶりに1984年の「アルフィーオールナイトニッポン」を重ね合わせていました。

 

この1984年当時は、ベストテン番組なども隆盛を極めていて、私もよくリクエストハガキを書いていたものです。

1984年頃だと、前年にメリーアンがヒットして、この先も一発屋的に終わってしまうのではなく、ALFEEが継続的な人気と実力を兼ね備えたバンドになれるよう、アル中皆で応援していました。

 

その頃まだ生まれていなかった若いアル中さんも増え、活躍の場としてネットが登場しました。

しかし、基本は何も変わりません。

アル中一人一人が、宣伝部長であり広報担当者なのです。

 

THE ALFEEの栄光の秘訣は、変わってゆくものを上手く利用し、その追い風に乗りつつも、アナログ的な手作り感あふれる手法を忘れないことではないでしょうか。

 

ネットの登場は便利で手軽にエンターテインメントに触れることを可能にしましたが、手作り感あふれるアナログなものを古臭いと切り捨てる者は、ネット社会の泡沫として消えてしまうでしょう。

 

ネット配信企画において、昭和の時代のラジオ番組の温かさを感じさせてくれるTHE ALFEE

四文字熟語で表すとすれば「不易流行」でしょうか。

いつまでも変わることのない本質的なものを忘れず、しかしながら新しい変化を取り入れる気概を忘れないでいる。

 

この心意気があれば、三人揃って200歳になっても、向かう所敵なしで快進撃を続けていってくれることでしょう。

 

Come on!ALFEE!!幸ちゃんお誕生日スペシャルを総括する

Come on!ALFEE!!Season2始まりましたね。

今日は、幸ちゃんこと坂崎幸之助様、お誕生日スペシャルでした。

爆笑の連続ながらも、これまでで最もユルい展開だったと思うのは私だけでしょうか?

 

歌の時間で予め撮影されていたもので流れたのが「明日なき暴走の果てに」のみで、もう一曲は代々木第一体育館でのライブの映像「CRASH!」

スナック・アルフィーでの熱唱の方が時間を割いていたと思いませんか?

この時点で大爆笑です。

 

次回は明後日の配信です。

たかみーこと高見沢俊彦様、お誕生日スペシャルですね。

予告編は激しかったですが、果たして本当に激しくなるのでしょうか?

今日同様、ユルい展開でも大歓迎ですが。

 

個人的には私もこの二人と誕生日が近いので、次回の配信も楽しみです。

 

ところで、貴重なライブ映像からの「CRASH!」が流れた時に、メンバーも発言していましたが、リアルなライブも待ち遠しいですね。

 

しかし、今はまだ辛抱する時でしょう。

締めるところは締めていかなければ、感染の収束はありません。

今この時の欲望を我慢できず、垂れ流す者が事態の収束を遅らせているのではないでしょうか。

欲望の垂れ流しは、破滅に向かう愚行でしかありません。

 

真っ当な判断の下に、リアルなライブを控えるTHE ALFEE

これは私の想像ですが、メンバーは怒っていると思います。

だらだら欲望を垂れ流す者がいるから、感染はいつまで経っても収束せず、リアルなライブを開催することができない。

そう考えているのではないでしょうか。

 

また、こうも考えます。

 

リアルなライブはできないことはない。

例えば、入場者にマスクの着用を義務付けるであるとか、入場者数を減らして客席の間隔を空けるなど。

このような”感染対策”をすれば、確かにリアルなライブはできるかも知れません。

 

しかし、実現していません。

何故なのか考えてみました。

 

それは、THE ALFEEのライブに相応しくないからではないでしょうか。

マスク着用で声出しなし、客席の間隔を空けるために入場者数を減らす。

 

これはTHE ALFEEのライブに相応しくありません。

特に、入場者数を減らせば参加できる者と参加できない者の間に、明らかな不公平感が生じます。

このような不公平感を、ファンに負わせることはメンバーの本意ではないのでしょう。

 

それに、入場時に検温などを義務付けたら、武道館などの大会場では入場者全員に検温しているうちに、ライブの終了時間になってしまいそうだと思いませんか?

 

THE ALFEEのライブとは、マスク不要で皆で大声で暴れるものでなくてはなりません。

マスク着用とか、客席の間隔を空けるなど中途半端なことはして欲しくないですね。

 

ところで、今日のようにメンバーの誕生日にリアルなライブに参加していた方は、いらっしゃいますか?

 

私はどうでしょう。

THE ALFEEを追いかけて40年ほどが経っていますから、ところどころ記憶が曖昧になってしまっています。

 

私は札幌生まれの札幌育ちです。

札幌で、メンバーの誕生日にライブが開かれたことはあったか?

うーん、よく覚えていないですね。

 

今の若いアル中さんは、小中学生の頃から親御さんと一緒にライブに参加する方も多く、世代の差を感じます。

私は今50代で、高校生になってからライブに行ってよいと両親から許してもらえました。

 

10代だった私が50代になるまでの40年ほどの時間。

アッと言う間に過ぎましたね。

 

今もなお、若い世代の新規参入が絶えないのは大変喜ばしいことです。

THE ALFEEはいつまで現役でライブをやってくれるでしょうか。

期待しています。

 

私がTHE ALFEEを追いかけ始めた40年ほど前、今のこのような展開になるとは、夢にも思いませんでした。

いい意味で裏切られ続けてきました。

ですから、この先もより良い意味で私たちを裏切り続け、期待以上の夢と希望を与えてくれるのでしょう。

大いに期待しています。

 

THE ALFEEは存在しているだけでも価値があります。

もはや、人間国宝世界遺産とでも言えると私は考えています。

 

明後日も、パソコン、スマホの前にアル中全員集合で盛り上がっていきましょう。