最近、ある作業をすることがあります。
昔、少しだけ勉強していたことがあり、それを辞めたくなったので手続きの書類を作ったり。作業に時間がかかることもあるのです。
英語の書類が送られてきたりして、内容を読んで確認するのに時間がかかります。
私は英語は得意な方です。
今度はいつ行けるかわからなくなってしまいましたが、以前はよく海外に一人で行っていました。
ツアーではなく個人的に手配して行くので、予約の時点から英語との格闘が始まります。
それでも、一人でぶらりと行っても困らないので、おそらく私の英語は現地の方にも通じているのでしょう。
英語の読み書きは受験勉強を通じて学び、聞いたり話したりは外国人の先生に教わりました。
最終的に入学した大学の学部は文学部でしたから、入試でも入学後も英語の勉強からは離れられず、読むのは今でも得意です。
大学生の頃は英語で小説も読んでいましたから、学生時代にやれるだけのことはやり、それは今の私の財産になっています。
聞いたり話したりは、大学生の頃にアメリカ人の先生、イギリス人の先生に会話を教わったので、質のいい英語に触れることができました。
いずれも学生時代に取り組んだことであり、若いうちに身に付けたことはなかなか忘れませんから、私の財産になっています。
私が英語を本格的に学び始めたのは、中学校に入学してからのことです。
今は小さな頃から英語を学ぶお子さんも増えましたが、私が子どもの頃は学校以外で英語を学ぶ生徒は今ほど多くいませんでした。
中学校に入って初めて英語を学んだような私でも、大人になって英語で困ることはないので、私は個人的には小さい頃から英語を学ばせることには懐疑的です。
英語を含めた外国語の習得には、母国語をしっかり学び、正しく身に付けることが必要だと思うのです。
受験英語に対する否定的な見解にも、私は懐疑的です。
正しく聞く、話す、読む、書くという外国語の習得のためには、文法や単語を地道に学ぶことが必要だと考えるからです。
受験英語であろうが、自分の学び方、学ぶ姿勢が大切だと思うのです。
私は受験英語で身に付けた文法や単語の知識を基に、聞いたり話したりしています。
ですから、小さな頃から学ぶことも良いのでしょうが、それが必ずしも英語が”喋れる”ようになる条件ではないと考えています。
私にとっては、受験英語で長い文章を読んだり、逆に日本語を英語の文にしたりという勉強がそのまま聞くことと話すことへの応用でした。
外国語を学ぶためには、母国語をしっかり学ばなければなりません。
受験の問題を解くのも、実践で外国人と話すのも、何を要求されているかを把握しなければ正しい英語は出てきません。
正しい英語のためには正しい日本語が必要なのです。
日本語は地球上でも難しい方に入ると思います。
英語の方が日本語より簡単だなというのが、私の個人的な感覚です。
例えば、外国でしつこくつきまとわれそうになった時、大きな声で日本語で言い返したりとかです。
大抵はビックリしたような反応が返ってくるので、その隙にスタコラサッサと逃げたりします。
このことは、日本語の難しさとはあまり関係はなさそうですが、日本語の発音やイントネーションに慣れている人が、日本以外にはあまりいないことを意味しているとは思います。
私は日本語が大好きです。
受験勉強をしていた頃、英語ももちろん勉強していましたが、一番好きだった科目が古典でした。
日本の古典文学は素晴らしいです。
古典文学を学んだことで、大学ではインド哲学を学んだほどです。
古典文学とインド哲学の関係については、また違う機会に書きたいと思いますが、古典文学には日本語の美しさがあります。
古来からの美しい日本語を学ぶことが、英語を学ぶことにも通じています。