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さて、週明けの大腸内視鏡検診を控えて事前の食事制限の二日目です。
今日はパン、ツナ缶、フルーツのゼリーを食べました。
まるでOLさんのお洒落なランチのようなメニューです。
消化の良いものしか食べられないので、どうしても軽いものになりがちですね。
食べることは大事です。
身も心も満たされますね。
動物が餌を貪るのとは違います。
人間はどちらかというと、心を満たすために食べているのではないでしょうか。
料理をしたり会食したり、気の置けない相手との食事は楽しいものです。
食べることは楽しいことなのです。
私は摂食障害で入院して治療を受けたほどですから、この意味の重さが今でも身に染みています。
大学病院の閉鎖病棟で治療しましたが、入院してすぐに主治医との面談で約束を交わしました。
回復後の体重の目標値を決め、その目標を退院の目安とする。
目標に達することができれば退院でき、目標に達することができなければ退院はできない。
非常にわかりやすい、謂わば”飴と鞭”とも言える方法で治療は進められました。
摂食障害は体にもダメージがありますが、精神科での治療が必要です。
食べなくなることは肉体的な欲求というより、精神的な何かが作用しているのでしょう。
私はそのことを自覚していましたし、私の場合は食べることを拒絶する理由がありました。
私が生まれ育った家庭は経済的に貧しい家庭でしたが、それ以上に精神的に貧しかったのです。
その精神的な貧しさを誤魔化すために一日に三度の食事だけは豪勢でした。
安い肉を大量に買ってきたり、とにかく空腹が満たされればよいという考え方でしたね。
しかし、それは違う。
豪勢な食事で誤魔化しても何も解決しない。
大切にすべきは心であり、精神の豊かさなくして本当の豊かな生活はない。
私はそう考えていました。
摂食障害で食べることを拒否した理由は、空腹、胃袋を満たすことが幸せではない、心が満たされなければ何の解決にもならない。
こう訴えたかったのです。
こういう主張がありましたが、私の母は未だに認めていません。
理解力が欠如した下品な人間だからです。
そろそろ介護が必要な年齢になりましたが、私はこういう下品な人間の尻拭いはしません。
まだ、死んでしまった父の方がマシですね。
私が摂食障害を発症した頃、父は一ヶ月に一度くらいしか家に帰れない仕事をしていました。
北海道内の地方に行き土木作業をする仕事をしていた父は、ある時こう言いました。
仕事が休みで家に帰って来ていた時のことです。
「とまとが病気になったのは、お父さんが家に帰ってこない仕事をしたからかも知れないね」
父はちゃんと自覚してこう言いましたね。
食べることの意味は心を満たすためです。
そのためには体のケアが必要です。
そのための検診です。
今、食事制限の真っ只中で辛いですが、週明けに控えた大腸内視鏡検診、頑張らなくては。
美味しく健全に食べて、心を豊かに保ちたいのです。