今日も美味しくごはんを食べることができました。
食べることの何が楽しいと思うのか。
お腹がいっぱいになる、喉越しを味わう、美味を堪能する。
食べることの楽しみ方には様々なものがあります。
私は食べることの何を楽しんでいるのか?
過去、摂食障害を治療していたことのある私は、今でも自問自答することがあります。
何のために食べるのか?
この疑問に答えられる方は、おそらく多くはないことでしょう。
このような疑問を持つ方も、多くはないことでしょう。
摂食障害の治療が功を奏し、今では普通に食べられるようになりましたが、今でも私は食べることに対する疑問が消えることはありません。
3月8日に、このブログで「お腹いっぱい、クソ喰らえ」のテーマでも書きましたが、摂食障害に罹った理由は明白です。
私が生まれ育った家庭は貧しく、経済的に苦しい環境でした。
その貧しさを補うことが食べること、とにかく闇雲にお腹を膨らませることだけが大事で、精神的な豊かさは二の次三の次という環境でしたから、その精神的な貧しさに反発を感じた私は食べることを拒絶、摂食障害になったのです。
このような環境に育ち、その環境に反発し、摂食障害に罹った過去があるので、摂食障害がほぼ完治した今でも、私は食べることの意味を常に考えることから離れられずにいます。
人間は何のために食べるのでしょうか?
考えたこともない。そういう方が大多数だと思いますが、人間とは考える葦です。
何気ない日常について考えるからこそ、人間は人間でいられるのです。
人間は何のために食べるのでしょうか?
考えてみましょう。
今は普通に美味しく食事ができるようになった私はこう考えます。
それは、心身ともに生きるためですね。
特に精神的な満足のために、人間は食べるのです。
野生の動物は、草食の動物であれば目の前の植物を食み、肉食の動物であれば獲物を捕らえて腹を膨らませます。
しかし、人間は違います。
素材を選び、調理をして、会話を楽しみ、何よりも楽しむために食べるのです。
この逆、素材を吟味せず、調理に創意工夫せず、一緒にいて楽しくもない相手と食卓についても、それは食事とは言えません。
人間は楽しく、精神を満たすために食べるのです。
精神を満たせないなら、それは食事ではありません。
私が生まれ育った家庭には、このことが決定的に欠けていました。
その反面教師ですね。
私は常に食べる意味を考えます。
楽しく食べられないなら食べなくてもいい。
こう考えたことから摂食障害になり、苦しい思いをしてきました。
今はそういった思いから卒業し、一人暮らしではありますが食べることを楽しめています。
離婚して一人になってから、料理はほとんどしていませんが、毎日の食事を楽しめています。
元夫と別れたことが楽しいのではなく、もっと根源的なこと。
金銭的な貧しさ以上に、精神的な貧しさに覆われていた実家を離れて暮らすことで、今の私は幸せであり食べることを楽しめています。
ただ食べるだけでは、人間は幸せになれません。
その後ろ盾になる精神的な満足感がないまま、腹を膨らませても幸せにはなれません。
食べるだけでは幸せになれません。
満たすべきは心なのです。