今日は父の誕生日です

今日は父の誕生日なのです。

84歳になりました。

と言っても、父はずっと昔に死んでしまいましたから、生きていれば84歳です。

 

父のことが好きか、嫌いかといえば、嫌いですね。

理由は、私との距離感がおかしいことです。

 

精神的な距離感がおかしい。

精神的な距離感が近すぎて、ずっと負担に感じていました。

 

肉親との関わりとは、程度の差はあれ、時には近すぎて嫌気が差すこともあるのではないでしょうか。

 

それでも、父が私に対する距離が近すぎた理由はわからないことはないです。

 

私の両親は、なかなか子供に恵まれませんでした。

二人が結婚して数年以上経ってから、私が誕生。私に執着する気持ちはわからないことはありません。

 

しかし、執着される方は堪ったものではありません。

私に対する執着は母より父の方が強く、それで父のことは苦手でした。

苦手というより、はっきり言って嫌いですね。

 

愛情が強いとも言えるのでしょうが、のべつ幕無し気持ちをぶつけられれば疲れます。

 

父は私の気持ちよりも自分の気持ちを優先させていたようです。

 

その理由はわかります。

父はおそらく発達障害を抱えていたのでしょう。

 

相手の気持ちを読むのが苦手で、自分の思いはみんなの思い、みんなの思いは自分には関係ない。そういう発想の人でした。

仕事も長続きしませんでしたし。仕事をすぐに辞めてしまう理由が、職場の会議で発言しても取り合ってもらえないからということで、自分の気持ちだけが大切という、かなり偏った人でした。

 

私にも自閉症スペクトラム障害があります。

自閉症スペクトラム障害発達障害の一種であり、親が発達障害だと子供にもその傾向は受け継がれることもあるらしいです。

私の自閉症スペクトラム障害は、父から受け継いだものなのでしょう。

 

このような状況があるので、私が父を嫌うのは環境のこと以上に、遺伝的な理由があるのかも知れません。

 

父には辛い思いをさせられることの方が多かったので、父のことは嫌いです。

早くに死んでしまったので、介護をしなくて済むだけでもホッとしますよ。

 

そんな父との関係ですが、何だかんだ言っても自分の父ですから、思い出はたくさんあります。

 

私の4歳の誕生日の日のことです。

父は仕事から帰ると、私にぬいぐるみを手渡してくれました。

 

手のひらに乗りそうな小さなぬいぐるみなのですが、父はいつの間に買ったのでしょう。

私の4歳の誕生日は、もう50年ほど前のことです。

50年ほど前なら、仕事を抜け出すのも大変だったのではないでしょうか。

 

今でも、父がいつの間にあのぬいぐるみを買ったのかは謎のままです。

父に一番聞いてみたいことでもあります。

 

その頃の父はまだ30代で、今の私よりはずっと若いです。

私はその頃の父より、ずっと年上になってしまいました。

今の目標は、父が死んだ年齢より生きることですね。

肉親を早くになくした方は、こう思っている方は少なくないようですよね。

 

父は癌で死にましたが、私も元癌患者です。

父の父、私の祖父も癌で死んだらしいので、私で癌の三代目です。

祖父は癌で死に、父も癌で死に、では私も癌で死ぬのでしょうか。

そうではありません。

 

癌の三代目にして打ち克つ気が満々です。

私は未だに癌治療後の経過観察中ですが、祖父が死んだ年齢はとっくに超えています。

次は、父が死んだ年齢を超え、さらに生きておばあちゃんになることを目標にしています。

 

私は父ができなかったことを可能にしてきました。

父は自分の発達障害に気付く機会もなく死にましたが、私は自分の障害に気付き前を向いて生きていこうとしています。

父は私に執着していましたが、私は誰のことも当てにしていません。

 

父のことは苦手で嫌いなので、もう関わりたくありませんが、4歳の誕生日に渡されたぬいぐるみは、いつ、どこで買ったものかは聞いてみたい気がします。

 

 

 

 

 

明日から5月ですね

明日から5月ですね。

ゴールデンウィークも本番で、休みを楽しみにしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

私は今年のゴールデンウィークは、ひたすら家にいます。

感染拡大を受け、外出は慎むべきですが、そのこととは別に特に行きたいところもありませんし。

 

それでも、若い頃はゴールデンウィークはウキウキと過ごしていました。

大学生になって初めて迎えるゴールデンウィークは、かなり忙しかったですね。

 

北海道大学に入学した私は、ゴールデンウィークはクラスの仲間たちとお花見に行ったりしていました。

 

今でもそうらしいのですが、北海道大学の新入生はクラスに分けられます。

文系、理系で2000人程度いる新入生は30~40人ほどのクラスに分けられていたような記憶があります。

 

そのクラスの仲間と、札幌のお花見の名所、円山公園に繰り出しました。

写真も何枚か撮ったのですが、今ではどこに行ってしまったかわからないですね。

 

しかし、記憶の中では鮮やかに残っています。

美味しいものをみんなで食べたり、歌って踊って、和気あいあいと楽しめました。

 

このように、ゴールデンウィークは新しい環境に少し慣れて、周りの人とも打ち解けられるいい時期ですね。

私にとっては、大学生になったその春のゴールデンウィークは、新しい環境で存分に羽を伸ばしていた時期でした。

北海道大学に入学し、高校生までとは大きく異なる環境に少し慣れて、いろいろなことに挑戦してみたり。

 

大学に進学した方の多くは、私と似たような過ごし方をされていたのではないでしょうか。

 

新しい環境で、新しい仲間と、新しいことに挑戦する。

 

私はクラスの仲間以外には、お試しで入った運動部の仲間ともゴールデンウィークを過ごしていたものです。

ある運動部にお試しで入部したのですが、もう三十数年も前のことなので、今以上に無秩序な面もありました。

 

ちょうど気候がよくなるので、羽目を外して大騒ぎしたり、先輩にしごかれたりであるとか、大学生になったなと実感していました。

 

結局、お試しで入ったその運動部は正式には入部しなかったのですが、短い間でもバンカラな運動部に在籍したことは良い思い出です。

 

このように、5月にはいい思い出が多いです。

今年の5月も良い思い出ができればいいのですが、一つ気になることがあります。

 

子宮頸がん後の経過観察が未だに続いているのですが、5月にはまた定期検査があります。

今のところ、再発を疑うような結果は出ていないのですが、やはり落ち着かないです。

 

大体3ヶ月に一度は通院で、年に一度は入院して検査を受けているのですが、無罪放免という訳にはいきません。

医師の説明では、高度異形成という状態で正常な良性の細胞ではなく、定期的な検査が必要です。

 

そうは言っても、癌として再発しなければいいと考えています。

できれば解放されたいですが、こうして検査を受けられることで定期的なチェックをしているのであり、無病息災ならぬ一病息災ではないかと思うのです。

 

人間は誰もが必ず病気になります。

無病息災の方が難しいのではないでしょうか。

 

一病息災、或いは万病息災でも良いではありませんか。

人間は誰もが必ず病気になります。

病気にならなくて済むようになるのは、死ぬ時、或いは死んだ後のことです。

 

大学生の頃のゴールデンウィークは、大学のクラスの仲間とお花見に行ったり、お試しで入部した運動部の活動をしてみたり、面白おかしく過ごしていましたが、私ももう50代です。

 

いつの間にか健康のことが気になる年齢になりましたが、これでいいのです。

100点満点ではなくても、70点くらいのゴールデンウィーク、5月を迎え過ごしていきたいと考えています。

 

時は金なりだけど

なんだか具合が悪いです。

些細なことが気になり、心配になってしまい気分が落ち込み気味です。

 

昨日も書いたのですが、強迫性障害が悪化しているのかも知れませんし、薬がまた処方され始めた双極性障害の影響があるのかも知れません。

 

精神の問題を抱える方はおわかりのように、こういう時は何もせず、気分が上がってくるまで待つしかありません。

 

そこで、何をして過ごしているかといえば、ひたすらダラダラしていますね。

ぼんやりテレビを見るとか、ワイドショーを最初から最後まで見てしまいましたよ。

巷を騒がせる事件の話題など、たまに見ると面白いですよね。

 

時間を無駄遣いしてしまっています。

 

しかし、たまにはいいではありませんか。

私が抱える精神の問題は、強迫性障害双極性障害、そして自閉症スペクトラム障害です。

これらが一気に押し寄せてきた感じですね。

 

時は金なりです。

時間もお金と同じで貴重で大切なものです。

 

しかし、具合が悪い時は時間を贅沢に使いたいですね。

お金を浪費してしまうと生活に影響が出てしまいますが、時間の使い方は自由です。

 

一日は誰にも平等で24時間しかありませんが、それをどう使おうと自由です。

考えようによっては、お金以上の使い道があります。

 

その一つが、時には気ままに時間を浪費することでしょう。

ぼんやりテレビを見るだけであったり、何もせずダラダラしたり。

これらの行動は時間の浪費と言えますが、時間の浪費はお金の浪費ほど生活に直結しませんから、精神的に具合が悪い時は惜しみなく使いたいものです。

 

時間を浪費してダラダラすることで、少しでも具合が良くなればいいのですが、どうなのでしょう。

少なくとも、時間を切り詰めることなく惜しみなく使うことで、精神的に余裕が出ればいいですね。

 

これで、少しは気分が上がるでしょうか。

そう願いたいですね。

 

 

 

自閉症スペクトラム障害の影響か

今日はなんだか散々でした。

あることが気になって仕方なくなり、ずっとお問い合わせのコールセンターに電話をしていました。

 

やってもやっても、或いはやらなくても、様々なことが気になったり心配になったりと、通っている病院の主治医によれば強迫性障害の症状らしいです。

薬も処方されていて、効いている時はいいのですが、効き目が切れている時は右往左往しています。

 

ある特定のことが気になったり、物事を反すうして考えてしまうのは強迫性障害の症状らしいのですが、このことに加えて、私には自閉症スペクトラム障害があると診断されています。

 

ある特定のことが気になってしまうのは、こだわりの強さの表れだと思っています。

 

自閉症スペクトラム障害があると、こだわりが強く他のことが手につかなくなることがあります。

私の特徴はまさしくこれです。

 

こだわりが強く、他のことが手につかない。

このような特性があり、一般的な仕事に就くことが困難なのです。

 

一般的に仕事をするということは、仕事場での指示に従い、そこに集中しなければなりません。

自分が考えていること、気になっていることがあっても、そこを押し殺して仕事をしなければなりません。

 

私はこのようなことが、かなり苦手です。

いくつ仕事をクビになったか、わからないくらいです。

 

もう一つ困ることは、期待された通りのことができないことですね。

どうして、こんな簡単なこともできないのかと受け取られてしまうのです。

 

私は北海道大学の卒業生なのですが、北海道大学知名度のある大学です。

このような知名度のある大学を卒業しているのに、こんな簡単なこともできないのかと受け取られてしまうのです。

 

主治医はこのことを「ギャップ」と表現しています。

学歴が高いのに簡単なことができない。

学歴が高いのに指示されたことができない。

 

或いは、期待されても、その期待に沿えず周囲をがっかりさせるであるとか、期待とがっかりの「ギャップ」があり、この「ギャップ」が私の就業を困難にしています。

 

言うまでもなく、この「ギャップ」の原因は私の自閉症スペクトラム障害です。

 

こだわりが強く、職務上で指示されたことより自分の考えや気になっていることを優先してしまう。

こんなことでは、一般的な職場では仕事をするのは難しいですよね。

 

主治医からは、強迫性障害も悪化しているとは診断されていますが、何か特定のことが気になってしまうのは、こだわりの強さ、自閉症スペクトラム障害の影響もあるのでしょう。

 

しかも、自閉症スペクトラム障害の影響も、年々、年齢を重ねるごとに顕著になっています。

 

人間は誰でも年齢による変化がありますが、私は生まれながらの障害の弊害が顕著になるという形で表れてきて、かなり困っています。

 

逆に言えば、この特性をプラスに変えられれば良いのですが。

 

上記のように、私は北海道大学の卒業生なのですが、勉強がとても好きです。

勉強は、一般的な生活の中ではほぼ使わないようなことですから、おそらく頭の中で普段は使わないところを使っているのでしょう。

 

私は、一般的に普段使わないところを使うことが得意なようです。

主治医によれば、かなり独特の特性を持つ私の適職は、学者か芸術家だとのことです。

 

学問だけなら人よりは得意で、自分の興味があることにこだわりが強いので、一般的な発想より得意な分野に没頭できるような仕事が向いているそうです。

 

適職が学者か芸術家。

なかなか面白いではありませんか。

文章を書くことが好きなので、作家でも目指したいところですね。

 

趣味はブログや小説を書くことです。

ブログは毎日続けていますが、小説は非公開の形で少しずつ下書きを作っています。

 

多くの仕事場をクビになった私が通用するのはどこでしょうか。

文章を書くことで、自立を目指したいですね。

 

 

 

一人暮らしの相棒

私は動物が大好きです。

今、一人暮らしなので何か相棒が欲しいのですが、なかなか難しいですね。

住んでいるマンションはペット禁止ではなかったと思うのですが、動物を飼うとお金も時間も、手間もかかります。

 

小鳥ならまだしも、犬や猫を飼うと本当にお金がかかります。

予防接種も受けさせる必要がありますし、犬であれば毎日散歩に連れていかなければなりません。

餌代もかかりますよね。

 

元夫と結婚している頃、一番多い時で犬を三匹飼っていましたが大変でした。

餌代はかかりますし、予防接種を受けさせたり負担は少なくなかったです。

 

それでも、何か動物と暮らすのは楽しいものです。

 

それでは、小鳥などを飼うのはどうか。

考えてみましたが、無精者な私には困難です。

 

元夫と暮らしていた頃は、しっかり専業主婦をしていたので、三匹の犬の世話もきっちりやっていましたが、今は気ままな一人暮らし。

すっかり無精者になってしまった私に、何か動物の世話ができるとは思えません。

 

小鳥などなら、犬や猫よりは手がかからないような気もしますが、小鳥だと寒さに弱く、冬に世話をするのが大変で可哀想な思いをさせてしまいそうです。

ですから、一人暮らしの相棒が欲しいとは思うのですが、やはり難しいですね。

 

気ままな一人暮らしをしつつ、都合がいい時だけ動物を可愛がる訳にはいきません。

 

子どもの頃は、多い時で三羽、小鳥を飼っていた時期もありました。

毎日、世話をするのは私の仕事で、小鳥も懐いてくれて楽しい毎日でしたね。

 

子どもの頃の私は、本当に動物好きで獣医さんになりたかった程です。

 

獣医さんになりたいあまり、小学生の頃、獣医さんななりたいから勉強したい、勉強したいから塾に行きたいと言い出して、母と言い争いになったこともありました。

 

言い争いをして、母に言われたことが忘れられません。

 

母は私に対して、女の子は獣医さんにはなれないと言い放ったのです。

まだ小学生でしたが、かなりショックでしたし、今でもわだかまりが残っています。

 

大人になってから母にその真意を尋ねてみたのですが、私の生まれ育った家庭は貧しく、当時は私を塾に通わせるお金がなかったのだと母は言いましたが、それでも、女の子は獣医さんにはなれないとは、言うべきことではありません。

 

母のこの発言は、その後の私の人生に影響を及ぼしました。

 

結婚はしたくないとか、自分の子どもは産みたくないとか、私自身の女性としての部分を否定的に捉える考え方をするようになってしまいましたね。

 

元夫と結婚したのは、私のこういう歪んだ部分に共感してくれたからです。

 

動物といえば、獣医さんになりたかった夢、それをめぐる母の許し難い発言を思い出します。

 

そのような歪んだ記憶は別として、今も何か生き物と暮らしてみたい希望はあるのですが、すっかり無精者になってしまった私には夢のまた夢でしょうか。

 

そう考えると、人間も動物ですから人間と暮らすのはどうか。考えてみました。

 

人間と暮らすのは、もっと大変そうです。

離婚経験がある私は、やっぱり一人が好きです。

誰かと暮らせばお互いに譲り合いですし、距離をうまく取る必要もあります。

 

離婚して十年以上が経ち、気ままな生活が長くなった私がこのような譲り合いや、互いに距離をうまく取ることができるでしょうか。

難しいと思います。

 

動物と暮らしても、人間と暮らしても、相棒がいる楽しさはあるでしょうが、楽しいだけではなく責任や気遣いも必要です。

 

責任や気遣いの必要があっても、誰かと暮らすか。

それとも、一人の気楽さを取るか。

 

私は後者ですね。

寂しくないのかと尋ねられることもあるのですが、全くそうは思いません。

女性の方がこういう方は多いですよね。

 

男性の方が寂しがり屋で弱虫なのかも知れません。

 

一人暮らしに相棒がいたらなと願いながら、一人でいる時間はまだまだ続いていきそうです。

福祉を利用して生きる

 今日は目の回るような忙しさでした。

役所に行ったり、ちょっと込み入った用事で銀行に行ったり。

おかげさまで解決しました。

 

役所に行ったのは、今後、福祉を利用して生きていくためです。

今すぐに働くことが難しく、生活の基盤を安定させるために福祉のサービスを利用する必要があるのです。

 

主治医からのアドバイスも受け、利用できるものは利用しようと考えています。

生活の基盤を安定させ、仕事を探すとしても慌てることなくじっくり探すべきである。

これが主治医からのアドバイスです。

 

私は今、生まれながらの障害、自閉症スペクトラム障害と向き合い、再び悪化してきた精神疾患の治療も受けなければなりません。

仕事をするとしても、障害者枠、就労継続支援の職場を選ぶことになりそうです。

 

しかし、今の病状では慌てて仕事を探すべきではない。

このような主治医からのアドバイスをもらい、福祉のサービスを受けて生きていきます。

 

思えば、私はこれまでも様々な福祉のサービスを受けて生きてきました。

私の生まれ育った家庭は貧しく、困窮した生活だったので、両親は多くの福祉のサービスを受けていたものです。

 

また、福祉のサービスとは違いますが、私は奨学金をもらい大学を卒業しています。

 

このように、幼い頃からいろいろな福祉のサービスを受けて生きてきましたから、サービスを利用することが恥ずかしいとか、みっともないことであるという意識はないですね。

生きる権利は平等ですし、皆、人間ですから誰がいつ、どんな福祉のサービスが必要になるかはわかりません。

 

適切な時に適切なサービスを受けて生きていけば良いのです。

 

私には自閉症スペクトラム障害という障害があるので、今後も様々なサービスが必要になることでしょう。

でも、将来を悲観的には考えていません。

 

やはり人間であり、いつ、どんな能力を発揮できるようになるか、わからないのですから。

 

いつ、どうなるか、わからないから福祉を利用する。

いつ、どうなるか、わからないから福祉を卒業できるかも知れない。

 

その可能性に賭けて生きていけば良いのです。

 

人生は生きていくことを続けることに価値があります。

死んで花実が咲くものかですよ。

 

自閉症スペクトラム障害がわかったのは最近のことですが、それ以前から私は多くの福祉のサービスを利用してきました。

障害がわかったからこそ自分らしく生きていけると考えているので、その為にも前向きに福祉を利用していきます。

 

障害も疾患も、人間だからこそ向き合えるものです。

障害がある者、疾患に苦しむ者を切り捨ててしまえば、畜生と同じではありませんか。

 

単なる弱肉強食ではないところに人間らしさがあります。

 

私に障害があるのも、より人間らしく生きていけというメッセージのように感じています。

それを暫しの間、支えてもらい、いつかは恩返しができることを目標に進んでいこうと思います。

 

 

 

 

 

 

Come on!ALFEE!!1987 MEIGAKU LIVEについて

フライングですが、語ります。

今夜、配信になるCome on!ALFEE!!1987 MEIGAKU LIVEについて語ります。

 

Come on!ALFEE!!については、いつも配信終了後にこのブログで書いていますが、明日は個人的に、朝早くから出かけなければならず、配信終了後にブログを書く時間が取れないのです。

 

よって、配信前に書いてしまいますが、ネタバレではありませんので安心してお読み頂ければと思います。

 

1987年、もう34年前なんですよね。

私は当時、大学生でした。

残念ながらこのライブに参加はできませんでしたが、このライブを収めたVHSのビデオテープが発売されたので何度も何度も見たものです。

 

VHSのビデオテープ、今の若いアル中さんはわかりますでしょうか?

 

34年前にDVDはまだ存在せず、ライブの様子を収めたものはビデオテープで発売されていました。

ビデオテープにはVHSとベータの二種類があり、VHSの方が主流でしたね。

 

私は大学生になり、アルバイトをして貯めたお金で念願のビデオデッキ(ビデオテープを再生するための機械)を買って、THE ALFEEのライブを収めたものを見ていたものです。

 

そのうちの一つに、今日配信になる1987 MEIGAKU LIVEのテープもありましたね。

 

今日、Come on!ALFEE!!で配信になる1987 MEIGAKU LIVE。

私が何度も何度もビデオテープで見たように、THE ALFEEのライブの中でも名ライブに入ります。

 

34年前とは思えないクオリティーの高さです。

34年前といえば、今の若いアル中さんにとっては昔の話なのでしょうが、私にはつい昨日のことのように思えます。

 

THE ALFEEの歴史に、古いという言葉はありません。

何年経とうが、何度見ようが新鮮でしかありません。

 

Come on!ALFEE!!でも、これまでのライブの歴史をアル中みんなで見ようという企画は行われてきましたが、そのどれもが時の経過を感じさせないものばかりです。

 

今夜の1987 MEIGAKU LIVEもそうですね。

 

34年前に、アル中みんなで配信という形で見られる時が来るとは想像することもできませんでした。

34年前、一般的に気軽にネットを利用したり、皆がパソコンやスマホを持ち、配信という技術で鑑賞することなど夢物語でした。

 

その夢物語が、今夜かなうと思うとワクワクします。

大学生だった私が、アルバイトをして貯めたお金で買ったビデオデッキで見た1987 MEIGAKU LIVEを、パソコンを使って配信という形で、同じ志のアル中の仲間と共有できる。

素晴らしいではありませんか。

 

リアルなライブはまだできませんが、長い冬を耐え忍ぶからこそ春の訪れがあります。

この緊急事態に、欲望を垂れ流すべきではありません。

欲望を垂れ流せば、必ず身を滅ぼします。

 

THE ALFEEとアル中の同志は、そのような愚者ではありませんから、春の訪れを待ちながら大いに楽しもうではありませんか。

 

待ってました!MEIGAKU LIVE!!

 

繰り返しになりますが、このライブはかなりの名ライブです。

私のお気に入りで、THE ALFEEのライブの中でもベストに入れています。

 

当時まだ生まれていなかった若いアル中さんとも共有できるのが楽しみです。

THE ALFEEの素晴らしさは、こういうところにあります。

 

長い歴史の中で、どこから入っても楽しめる。

かなり昔のものでも、色あせないクオリティーの高さを誇る。

よって、常に現在進行形であり、未来においても進行形、未来進行形で進んで行くのです。

 

もう一度言いましょう。

リアルなライブはまだできませんが、冬来たりなば春遠からじです。

耐え忍ぶべき時に耐え忍ばない者に、明日はありません。

 

明日のために今日があります。

今夜はそんな未来に続く一夜になることでしょう。