本編の前にお知らせです。
「とまとの呟き」の姉妹版・小説を書いています。
「とまと文学部」で今は「裸の王子様」という短編を書いています。
tomatoma-tomato77.hatenablog.jp
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よろしくお願いします
~ここから本編~
明日、父のお墓参りに行ってきます。
楽しみですね。
お墓に行くことが楽しみだと言うと、おかしいでしょうか?
そんなことはありませんよね。
お墓には故人の人生が投影されていて、その人が生きてきた人生が表れています。
それを見ていると、よその方でもその人が生きてきた人生を教えて頂いているような気がして、実り多い時間を過ごすことができるのです。
個性的な自由設計のお墓も多く、お盆のこの時期に行くと多くのお墓にお花が飾られ、華やかな雰囲気が漂っています。
個性的な自由設計のお墓だと、故人の思い入れのある言葉が墓石に刻まれていたり、故人の指定なのでしょうか、写真やメッセージが墓石に印刷されて表されたりしています。
私は死んでもお墓や葬儀は必要ないと考えていますが、個性的なメッセージや私の思いが刻まれるのであれば、お墓を建てても良いかなとも考えます。
ただ、私も死んだことはないので何とも言えませんが、如何に素晴らしいメッセージを墓石に刻んでも死んでしまっては元も子もないと思うのですが、どうなのでしょうか?
寧ろ死んでからの方が真の人生なのでしょうか?
私は大学でインド哲学という学問を学び、仏教の教えに感銘を受けていました。
この世界に存在するものは常に移り変わり、不変のものはないとする”無常”という教えがあります。
全ては移ろいゆく実体のないものであり、その中で如何に学び、自らを高め、悟りを知る段階に近付けるよう努力できるかが大切なのです。
しかし、実際の人生ではなかなかそうもいかないですよね。
死後、お墓の中で眠って過ごす時間の方が、煩悩にまみれた世界にいる時よりも真の世界なのかも知れません。
そんなことを考えていると、お墓というものは人生の本質を表すものであり、そこがその人の人生の真のあり方を表現している場所だと思うのです。
このようなことを考え、私は墓所は好きですね。落ち着きます。
父のお墓は決して立派なお墓ではありません。
自由設計でもなく、ごく普通のありふれたお墓です。
派手なことが苦手で、誠実で真面目ながらも不遇だった父らしいお墓だと思います。
父が死んでから20年以上が経ちました。
父は今頃どこに行き、何をしているのでしょうか。
生まれ変わりというものがあるなら、どこかで生まれ変わり、全く違う生を生きているのでしょうか。
人間に生まれ変わるとは限りませんから、別の生き物になったのでしょうか。
ところで、父は死後、誰のところにも姿を現していません。
霊感の強い母の前にも現れていませんし、夢にも出てきません。
生前は甲斐性なしで、家族に多大なる迷惑をかけていましたから、その自覚があるのでしょう。
何よりも自らを省みて、自らの行いを自覚する者に道は開けます。
父は道を切り開き、どこかで元気にやっているのだと思います。
お盆になると、向こうの世界に行ってしまったご先祖さまは、こちらの世界に戻ってくるそうです。
その目印がお墓なのでしょう。
明日は父のお墓参りに出かけます。
こちらの世界に戻ってきた父に会いに行こうと思います。