精神科通院 四半世紀近く

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写真はイメージです。

 

今日は午後からメンタルの病院に通院する日です。

私は今日のタイトルのように精神科のお世話になって四半世紀近く経っています。

疾患の治療というより生来の自閉症スペクトラム障害があり、その障害のサポートが必要なので主治医からは精神科を卒業するのは困難だという診断を受けています。

 

メンタルの病院の通院歴は四半世紀近いですが、私は元々精神疾患気質です。

精神の不調は自分が記憶している範囲では小学校4年生の時から始まっています。

当時は子供でしたから自分に起きた不調が何なのか言葉にできませんでしたが、今で言う離人症ですね。

学校に行っても周りの友達との間に、薄いベールがかかったような感じで不快感がありました。

 

私が小学生の頃、もう40年以上前のことですから子供の精神の不調は一般的には知られていない時代ですね。

離人症の症状が苦しくて学校に行く時間になると、私は布団に潜り込んで登校拒否していたのですが、母に叱られて学校に行かされていました。

 

私の両親は1930年代の生まれで、今はもう90歳近いです。

この世代の人って大人の精神不調にも理解が乏しいですよね。

それで私は精神に不調を来しても、大人になるまで精神科のサポートを受けることができないまま成長しました。

私は中学生になると摂食障害にも罹りましたが、なんと、母はこんなことを言っていました。

 

私の成績が下がらなかったので、摂食障害で体重が30kgくらいになっても問題ないと思っていた。

 

これは世代のせいではないですね。

母の人間性の問題です。

見るからに瘦せ衰えているのに、成績が下がらないから大丈夫とは呆れてしまいますね。

これは完全にアウトです。

私は母が死んでも葬儀には出ないと決めています。

こんな考え方の人を弔う気にはなれません。

父はちゃんと言っていました。

自分が家を空けるような仕事をしていたから、私が精神に不調を来したのだと。

 

今の私はこんな母の存在を無視して、福祉のお世話になって生きています。

幸せですね。

今から10数年前、当時の主治医が離婚したばかりの私に障害者手帳の取得、障害年金生活保護の申請を勧めてくれました。

ありがたかったですし、今でも感謝しています。

 

私は生来の精神疾患気質ですね。

治る見込みはないようなものです。

それでも専門医のサポートを受けて福祉を利用して生きる。

それでいいじゃないですか。

自分が幸せを感じられるならそれでいいのです。